大先祖・児島高徳公縁の地を訪ねて、西毛紀行記。

和田範長公生誕七百四十周年記念』

★ 和田備後守藤原三宅範長公は、児島高徳公(児島備後三郎藤原三宅高徳)の、
外祖父で、後に、高徳公を養子にした私の二十五代上の先祖です。 ★

どうぞ、縁故の有る方は、この案内を参考に、縁の地を訪れて下さい。

此のPAGEは、「二千年前韓国から来た私達のルーツ」及び、
「太平記之郷・児島高徳公終焉の地案内記」そして、
「新田義貞と脇屋義助、そして楠正成」と共に、御覧下さい。

児島神社創設の折、御協力戴いた方々。

  児島神社は、明治十二年(1879)十二月、高徳公後裔で、子爵の三宅康保(田原藩最後の十二代藩主)と私の高祖父三宅佐太七
 「児島高徳朝臣墳墓考」の著者で、世良田八坂神社神官の、阿久津盛為、更に、県会議員白石好等が神社創設を謀り、
 明治十五年十二月官許を得て、仝二十一年十一月社殿と社務所を竣工し、其の境内千三百九拾五坪。
  三月と十一月の二十四日を例祭とした。祭神は、勿論児島高徳朝臣です。
  宝物として、下記を所蔵したが、
1、 高徳朝臣真筆([清風]と書かれた)額 一枚 貴船神社 柴崎宣弘宮司 御神体 絹で表装の家紋入り屏風 明治二十二年十月寄進
2、 太刀(私の家に伝わった[銘 愛石丸]) 一振 私の高祖父 三宅佐太七 高徳が使用の備前兼光作名刀 明治二十二年十月寄進
3、 短刀([銘 貞宗]) 一振 中野村(邑楽町) 小島喜四郎 高徳娘徳子が吉野より携行した物 明治二十三年三月寄進
4、 神鏡(八稜銅鏡) 一面 東京神田淡路町 増田英治 八綾銅鏡で裏に鈕有 明治二十三年三月寄進
5、 泥硯(高徳が使用した硯) 一面 妙義神社 祠宮白井巌の子息白井幸次郎 恵比寿の像を彫刻、裏に高徳の名と花押 明治二十五年四月寄進
6、 太刀(白鞘) 一振 高崎町(高崎市) 矢島八郎 三條近作の作 明治二十六年十一月寄進
7、 甲冑 一式 上都賀郡下南摩村(鹿沼市) 阿久津稲次郎 湿味色中札印花緘小手脞当等古風な甲冑 明治二十六年十一月寄進
8、 鞍鐙 一式 上都賀郡金崎村(鹿沼市) 川島慶次郎 代々所蔵した古い倭鞍 明治二十六年十一月寄進
9、 高徳軍中守護神摩恒利尊神像(高徳自作) 一基 高徳寺第十八世住職 児島宥昌 弘法大師作を模した高さ九寸像 明治二十六年十一月寄進
  何れも、戦後のどさくさで、神社南に在する白石うめ宅に保存されていると聞き、「児島高徳公 実在論」の著者宮家史朗が、
  当時の沖山一郎大泉町長と共に、白石宅を訪問し、経緯と所在確認を乞うたが、叶えられ無かったとの事でした。
   (沖山一郎大泉町長の夫人は、私の中学の担任で、母親と仲の良い関係から、「実在論」の中で著していない部分も、双方から聞いた事が有りました)
  宝物が無い為に、参拝する者も無く、非常に寂しい状況です。

   児島神社創設以前に、関係者は真の墳墓と認識していた訳です。
   1395坪の山林内の社殿は、南向きで、間口二間二尺×奥行九尺の四方廊下を回らした建物です。家内安全の神様で、残念ながら宮司は通い。

   同上、関係者等皆様に、遅ればせながら、感謝の意を表したく、順次訪問する所存ですので、宜しくお願い致します。
   子供の頃から、良く行った大間々町の貴船神社を参拝し、宮司に柴崎宣弘と云う人の存在を訪ねたら、
  「此処は、代々〇〇姓なので、其の様な事は無い」と非常に嫌な感じで、云われた。前橋の産泰神社と同じ、二度と参拝したく無い思いで有る。

妙義神社

   ● 画像は、川島邦夫宮司に戴いた<妙義神社と妙義山>のパンフレット表裏表紙<総門>等の写真入り説明内容の一部です。
    そして、<妙義神社社殿昭和・平成の修理竣工記念>のパンフレットです。
     我が遠祖高徳公は、後醍醐天皇の縁の神社でも有り、又、南朝の道から、碓氷峠を越え、
    義貞・義助の故郷の新田や古海に至る途上、南朝の勝利祈願に何度も参拝し、<泥硯>を奉納したと云う。
     其の<泥硯>が児島神社創設の折、返還され、児島神社の宝物と成ったのです。
     此の日、妙義山の花見も兼ねて、御挨拶に伺ったら、川島邦夫宮司に御会い出来、経緯を話したら、
    非常に喜んで、戴いたので良かった。2014/4/7訪問。
  ● 画像は、戴いた<川島邦夫宮司の名刺>。
    そして、20年3月22日(san)群馬テレビ21時からの<ごりやくさん>で、放送された妙義山で、妙義の名は、後醍醐天皇に仕えた権大納言長親卿が、
   此の山を眺め、明々巍々(めいめいぎぎ)で有る処から「明巍」と名付けた事が、後に「妙義」と成ったと言われる。
    そして、出演し、江戸城・川越城・岩槻城に、妙義神社が、祀られて居ると解説する川島宮司。
    妙義山の桜は、07年4月に愛妻と行った此れも高徳公縁の地「吉野千本桜」と同じに、
   麓から山頂に向け、咲き誇るので、当分の間花見が楽しめると<道の駅 みょうぎ>の売店の小母ちゃんの話だった。
    清酒[妙義山]は、道の駅 みょうぎで販売して居ます。
   ● 左画像は、川島邦夫宮司に戴いた<妙義神社・夫婦長寿箸>そして、
   「(有)中村豊蔵商店」製作の<妙義神社・招福椀>夫婦椀の黒色「夫用」黒色と「妻用」と妙義神社熨斗紙です。

   妙義神社を訪れた際、我が遠祖の歌碑と石灯篭の存在が、川島邦夫宮司の話しに出ず、判らなかったが、
  浅田晃彦著「児島高徳と新田一族」に記述が有ったので、次回参拝の際、確認したいと思います。
   浅田は、入内島一崇と同じに、我が家の近隣に有る史跡は訪れても、我が家に取材に来る事は無かった。
   「児島高徳と新田一族」の文中では、薄暗い杉木立の下、笹の茂みに囲まれた所に、風雪に耐え、青苔に蝕まれた歌碑が有り。
   <こころさし立つる願を■■なひて 此白雲の山にいのらん 應安元年 義■ほうし>と刻まれ、
  我が遠祖児島高徳公の法名志順義晴大徳覚位を意味して居る。
   應安元年は、南朝暦正平二十三年で、いとこおじに当る後村上天皇が崩御された年で有る。
   又、歌碑の傍らには、<お化け灯篭>と呼ばれる石灯篭が有り、灯も無いのに、青白く光る時が有ると云う。

           【名所碓氷神社
   関東の奇鋒妙義山の中腹に、妙義神社が有る。
   境内凡そ、八万五千坪、社殿、唐門、随神門、楼門等有り、
  輪奐の美(りんかんのび)を競い、四囲の奇峰奇岩と相対し、正に、名所と云うべし。
   日本武尊を祭神とし、欽明天皇の時、創建され、推古天皇の時、別当を置かれ、光仁天皇天皇の時、再興有り。

行田(おくなだ)の彼岸桜

  ● 画像は、我が大先祖高徳公が植えたと云われる「行田(おくなだ)の彼岸桜」です。
    碓氷峠を越え、妙義神社への行き帰りの途中に、植えたと思われるが、樹齢四百年以上だと勘定が合わないので、
   私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が植えた桜と思います。我が遠祖高徳公は此処で、娘徳子を儲け、縁者磯部城主佐々木秀綱を媒酌人に、
   弘和元年(1381)四月二十七日下野入道南順の後裔宮下又二郎正治に嫁ぎ、白寿で没して居る。
    此の行田に、徳子を生んだ母の縁者が、居る訳だが、現在迄、判らない。そして、此の行田には、同和が七世帯有ると云うが、
   其の苗字と大先祖との関係は、判らないのが、残念です。
  ● 中画像は、仝遠景。付近の年配の男女二人に聞き込みしたら、樹医さんが市の依頼で、
   桜を診に来たが、状態が良くないのにも拘らず、今年は早めに咲いたとの事でした。
    私の先祖が、植えた桜が咲くのを毎年楽しみに、待って居てくれるのは、嬉しい限りです。2014/4/7訪問。
  ● 右画像は、何十回となく碓氷峠を越えた愛車ふそうT651Jと甥。

           【碓氷峠
    奈良時代に都が有った奈良、平安時代に都が有った京都、
   此の時代から、我が上野之国の防人として、都に、徴発された者達、そして、我が祖児島高徳公達南朝の忠臣や、
   加賀藩・大聖寺藩の参勤交代の時代、最も、開け、更に、私も、愛車で八千代の茨城産白菜等を満載し、登り下りした。
   室町時代は、笛吹峠と称した碓氷峠を登り下りした。
     「ひなぐもり碓氷の坂を越ゆる日は せなのが袖もさやにふらしつ」と、万葉集にも、謡われて居る。

    頼朝に追われた義経は、碓氷郡板鼻に着いたが、泊まるべき所が無いので、
   と或る家に行き、一夜の宿を乞い願ったが、主人が留守だと言って、断られた。
    然し、無理を言って、泊った処、其処は、後に、義経・四天王のひとり伊勢三郎義盛の棲家だった。
           【碓氷関所
    碓氷郡横川の碓氷関所は、元和八年(1622)六月、幕府の目付能勢次郎左衛門実地見分として、横川に入り、徳川秀忠上洛に付き、幕府の内意に依り、
   東山道の固めとして、翌年三月、安中藩主井伊直勝が、関所を開設。合わせて、碓氷嶺堂峰に、遠見番所を署き、原村の住民に守らせた。

           【碓氷関所を守る人達
    1、番頭は安中藩の武士で、二人が関所内に居住し、一日交替で執し、上席者決裁権を有す。
    2、平番三人が、十二時間交代で、勤務し、番頭の補助役を成す。
    3、同心五人が、一日二人交代で、関所の警護、手形の取り扱い、犯罪人捕拿、門鍵の管理、通過受付を担当し、水色絹の羽織を着用する。
    4、中間四人が、二人ずつ東西両門を守る。     5、箱番四人が、常に乱心者等を取り締まる。(其の他詳細は、上記リンクから、御覧下さい)

松岸寺の五輪塔

  ● 左画像は、私の三十一代上の先祖<佐々木盛綱公の碑>です。
    松岸寺に、13年電話した処、印象が悪く、四月一日我が家の菩提寺「曹洞宗・常光寺」に、墓参の折、小川高義住職が見えたので、
   同じ、宗派の松岸寺(027-385-7075)に付いて、聞いたら、電話して呉れて、良い感触だったのだが、訪ねて見ると、矢張り、印象悪だった。
  ● 中画像は、「佐々木盛綱夫婦二基の五輪塔」
     東側の五輪塔は、高さ164cm、上から「空・風・火・水・地」の各輪を「団・半月・三角・円・方」で表し、
    地輪に「正応六年(1293)四月十日」の銘が有ります。
     又、空輪を欠く塔は、地輪に「正応六年三月一二日」の銘が有り、以前は、墓地西南の古墳上に建てられて有りました。凝灰岩製です。
  ● 右画像は、私の先祖が、小泉城主富岡対馬守秀高に、嫁いだ縁の有る<[下総国結城富岡氏家譜]>で、所蔵。

    横川良哉(りょうさい)住職は、留守との事で、其の母上に尋ねたのだが、関心薄く、住職の姿も見たが、挨拶無く、
   大阪の方に、佐々木神社が有ると云う事で、其の関係者が来たが、良く判らないとの事だった。
   私は、知識として、沙沙貴神社の存在等は、知っていたが、先代住職だったら、中に入れて貰えたか?・・・ 2014/4/7訪問。

     <佐々木三郎盛綱公の詳細>
  「源平藤戸合戦」で活躍した佐々木三郎盛綱公は、近江源氏の一族で、
 其の父秀義は、源為義の娘を娶り、「平治の乱」では、義朝方に付いて戦った。
  盛綱公は、仁安三年(1168)より、伊豆に流された居た頼朝に仕え、
 其の後、頼朝の治承四年(1180)の挙兵では、伊豆国目代だった山木兼隆加藤景廉と共に討ち取り、
  「源平藤戸合戦」等の源平の合戦で、戦功を上げ、伊予・讃岐・越後・上野等の守護を命じられる。
  此の「藤戸合戦」の地で有る備前児島も与えられ、盛綱の三男時秀は、東郷を名乗り、備前源氏として繁栄する。
  正治元年(1199)頼朝の死に因り、頭を丸め、西念と称し、『吾妻鏡』に依ると、同三月所領を召し上げられた事を嘆いて、
 「既に、右幕下頼朝公の御代と異り、只、恩沢に厚簿の在するのに非ず、知行所領等を召され」と訴え、
 此れが原因で、上野国伊勢部(磯部)に隠居する。
  其れから、二年後の建仁元年(1201)一月、越後の豪族城長茂が京都仙洞御所の後鳥羽上皇の元に押掛け、頼家追討の宣旨を請求したが、
 拒否され、翌二月吉野に於いて、殺された為、長茂の甥資盛は、越後・佐渡の兵を集め、挙兵した。
  幕府は、武勇に優れる城一族の脅威に対し、鎮定の意味で、同四月伊勢部の屋敷(現在の磯部城跡)に居る盛綱公に、御教書を下した。
  『吾妻鏡』に依ると、鎌倉からの使者を受けた時、盛綱公は門外に居たが、御教書を立った儘読み、
 門に立て掛けて有った鞍を愛馬に掛け、飛び乗ると其の儘、越後を目指して、走り出した。
  残された家来達は、慌てて、主人に遅れじと追掛け、三日で、越後国鳥坂に城郭を構える資盛を攻め、盛綱公武名が増す・・・。
  法然の念仏結縁交名状(奈良市興善寺文書)には、西念の名有。
  盛綱公長男信実(加地太郎佐衛)其の長男秀忠は、磯部氏を名乗り、磯部城を守り、
 次男加地二郎実秀は、祖父が頼朝より与えられた、越後国蒲原郡加地荘に暮らし、加地氏を名乗る。
  我が祖高徳公は、熊山城挙兵の際、磯部城を守る秀忠の長男秀綱の元へ、室の小里等家族を預けた。
  高徳公等私の先祖達は、幾度も、三河三宅から、南朝の道の香坂高宗の大河原城に寄り、碓氷を越え、
 宣化二年(537)創建の妙義神社を詣で、行田から、磯部城に寄り、此処に来た訳ですが、血は水よりも濃しと云う事です。
  そして、高徳公は、小里と別れた後、行田で縁が出来、義貞公の縁者宮下に嫁いだ娘徳子を
 此処で、儲け、其の仲人を磯部城の秀綱が務めた。
  <参考資料>(<児島高徳(実在論)>宮家史朗・著/1974.11.15上毛新聞社・刷)・(<郷土史事典[群馬県]>萩原進・編/1977.10.20昌平社出版・刊)

総務大臣届出47年政治団体 三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)

日韓親善NGO活動41年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会

会長 三宅英雄 (高徳公陰陽直系二十四世裔)

      本会は、2012年7月8日(日)被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、第二弾から、第八弾迄、
     「除染作業」等の支援をしたが、酷い目に遭い、<被災地の悪徳業者1><被災地の悪徳業者2>ブラックリスト悪徳業者と戦う
      国家も、被災地には、税金を使わない方針に、変更の為、被災地支援から、撤退しします。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★

誰もが望む、健康と長寿の万能薬・食べる化粧品<乾燥厚岸草・鹹草/함초>顆粒
万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央二丁目10-19 電話&Fax 0276-61-0560
公開2014年04月09日   更新2023年11月03日   <敬称略>

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