西暦参拾壱年神国(신국/sin-guk)から、来た私達のルーツ

児島備後三郎藤原三宅高徳陰陽直系二十四世裔三宅英雄
同じ三宅姓でも、我が三宅姓では無い三宅姓有り

児島高徳公直系同族会設立三十五周年記念』

児島高徳六世裔三宅太郎左衛門尉藤原芳高】が、児島高徳公墳墓守護と供養の為、此処に在住四百五十年記念★

 【画像解説】左から、我が大先祖児島高徳公の墳墓に、建立の福田赳夫総理揮毫墓碑。
       (東日本大震災で若干傾く。群馬県邑楽郡大泉町古海551)
       そして、我が家で、代々伝わる高徳公終焉の地を証す正伝記
       (此の正伝記は、門外不出で、宮家史朗著「児島高徳実在論」と群馬県文書館のみで、
      皆さんは、見る事が出来なかったが、 wikipediaでは、此の正伝記を否定する文章が有る為、
      高徳公の六百参拾七年忌に当る2019年11月24日公開する)

    何故?私が日韓親善と日韓相互理解に生涯を掛けているのか?
    其れは、私の元祖新羅四代王昔脱解/석달해>だったからなのです。
    其れで、私の歴史は元祖昔脱解誕生から今年で、2,043年です。

    平家は、身内で、同じ様な事を云ったが、「藤原氏にあらざれば、人に非ず」と万人に云われた。
    其れは、皇族と婚姻を結ぶのは、殆どが、藤原(ふじわら)氏だったからです。

    此のpageは、2006年7月30日投稿の 「天日槍・田道間守・児島高徳・三宅太郎左衛門藤原芳高・私」を加筆・修正した物です。

   そして、此のpageは、私の遠祖 児島高徳公が晩年を過ごした、太平記之郷・児島高徳公終焉の地案内記そして、
  高徳公が此処に眠る縁で、六世裔の三宅太郎左衛門藤原芳高家老として迎えてくれた、
  冨岡家と菩提寺龍泉院、そして三宅氏の私及び、 姓氏(苗字)で判る私達のルーツ 更に、児島高徳公縁の地を訪ねて、西毛紀行記
  更々に、 児島高徳と増位山の三保ヶ関部屋新田義貞と脇屋義助と楠木正成、そして児島高徳と共に、御覧下さい。

【元祖・ 昔脱解(석탈해・新羅四代王で昔氏/석씨の始祖)】
遠い昔、韓国から来た私の祖先/호랑이 담배 피우던 옛날 한국에서 온 우리 조상들
(韓国では、遠い昔を語る時、<虎が煙草を吸っていた時代 호랑이 담배 피우던 시대>と云う)
*  竜城国或いは、多婆那国(昔の倭国の一国)の国王の含達婆(함달파→<福達磨>の語源で、又、父親の事をエビ/애비(<恵比寿>の語源)と呼ぶが、
  積女国の王女を娶って妻とし、婚姻から七年後、大きな卵を産んだので、王は「人にして卵を生むのは不吉で有る」と言うので、
  王妃は忍び難く、絹布に卵を包み、宝物と一緒に櫃に入れられて海に棄てられた。(紀元前十九年)
   新羅/신라の阿津浦(現在の慶州市陽南面下西里/경주시양남면하서리)で、
  鵲(カササギ/까치)が煩く鳴いていたので、 阿珍義先 (아진의선)と云う名の老婆が櫃を拾い、
  大事にして育てたら、後に脱解王に成ったと言う誕生物語が伝わる。
   そして、脱解吐含山/토함산(仏国寺が有る山)に登って、七日間徐羅伐/서라벌を観察しただけなのに、
  半月模様の峰を見つけて、其処が明堂(下記[陰陽五行説]参照)と判断し下ったが、既に、虎空という人が住んでいた。
   脱解は、虎空の家の傍に炭と砥石が有るのを問うて、
  此処は、元々自分の先祖の家だと主張しながら、其処を占領してしまった。
   此の過程を見聞きした新羅二代王朴南解/박남해(朴氏/박씨)が賢いと言って、
  脱解を長女の王女(맏공주/長公主)壻にしたのだった。
   サッポロ黒ラベル会の皆さんと韓国旅行をした際、現地ガイドさんが、
  鵲は非常に縁起の良い鳥と言ったので、嬉しかったが、
   鵲の字を略して「昔」を姓とし、韓国では、鵲は非常に縁起の良い鳥と言われる。
  (AD65年、当時の新羅王で有る脱解尼師今が、鶏林で、金の箱を見付け、其の中の子に、
  金姓を与えたのが、慶州金氏の始祖金閼智で有るので、月城昔氏と親戚です)

   都の意味の<ソウル/서울>を思い浮かべ、空を見上げる為、<ソラ/서라>に成った様に、
  脱解の倅仇鄒/구추が天日槍(アメノヒボコ/男性の太陽神を意味する)の弟知古/지고と思われる。
  (徐羅伐/서라벌は、新羅の首都名で、抱え切れない大きな都を意味する)

   韓半島の代表的民謡で有る<アリラン・아리랑>は、新羅初代王赫居世居西干・혁거세 거서간の王妃<閼英アリョン・알영>を唄ったとされる。

   <昔脱解/석탈해>の陵は、慶州駅北東に有り、本貫は月城/월성のみ、新羅で昔氏姓を持った八人の王の中で墓が残って居るのは脱解王陵だけ。
   <三宅藤原氏>の元祖が脱解の後裔だと言う書籍が韓国に有り。
   三宅藤原氏は、大和朝廷の直轄地屯倉・皇族を意味する宮家(高徳公生誕五流尊瀧院の姓)に縁が有るが、
  新羅王朝を司った朴・昔・金の三つの一族を指す姓氏なのです。
  そして、我が一族の家紋三宅輪宝が、八角なのは、此の八人の王を表わして居ます。

   三宅姓を名乗って居ても、三重県松坂市(118世帯)・鳥取県鳥取市(30世帯)・広島県竹原市(17世帯)・大分県別府市(14世帯)の三宅姓は、
  我が一族に有らずと<全国部落調査>の記載されて居ました。


   ● 脱解王の詳細は、19世紀編纂の「新羅本記」に記載され、脱解王は、61歳のAD57から80迄即位したので、
    天日槍が息子/자식と判断出来、脱解王陵の有る<屋根の無い博物館慶州/경주>に付いては、愛車3000キロ韓国周遊の旅を御覧下さい。
  【画像】脱解王陵 慶北慶州市東川洞山17 史蹟 174号 新羅時代・아래의 화상은 탈해왕능 경북 경주시 동천동 산 17 사적 174호 신라시대
      そして、석탈해신화/昔脱解神話です。
   * 竜城国或いは、多婆那国は、<倭国の東北一千里の処に有る国>と云う事だが、邪馬台国が九州北部ならば、
    韓国の距離で、東北一千里(韓国では一里が四百米)は、約四百基米東北の出雲の国が、マッチする

     韓半島を「三千里錦繍江山」と云い、<南北が三千朝鮮里に及ぶ、麗しい山河の半島><三千里の絹の綾取りをした江山>の意味です。
     遠い昔、新羅を神国/신국と云い、慶州を王京/왕경と呼称した。そして、新羅の王宮を月城/월성と呼称した。

【始祖・天日槍(あめのひぼこ)或いは、天之日矛】
 * AD後(紀元後)の垂仁天皇の頃、天日槍は、新羅の国の脱解王の王子として生まれる。(脱解王即位前)
 * 新羅の阿久(アグ)沼<大韓民国慶州市>の辺で、昼寝をして居た女性が太陽の光を浴びて、
  目映い赤玉を産み落としたと言う噂を聞いて、譲り受け、持ち帰った処、赤玉は美しい乙女に変身し、
  天日槍は妻に娶り、楽しい歳月を送るが、夫婦喧嘩の末に「祖国へ帰る」と云い残し、
  日本に逃げ帰った妻阿加留比売(あかるひめ)を追い、家督を弟知古/지고に譲り来日。
   其の間阿加留比売は難波<大阪市>の比売詐曾(ひめこそ/日の巫女を意味する)神社の祭神と成ってしまう。
   天日槍は八種の神宝を持参し、八千名の供を連れ、難波を目指し、一旦播磨の国宍粟(しそう・兵庫県宍粟郡)に上陸。
   (垂仁天皇・治世三年三月・AD31)噂を聞いた垂仁天皇は、大三輪大友主市磯長尾市を遣して、「何故新羅の王子が大倭に来たか?」と問うと、
  「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した」と答えると、其の宍粟周辺の領地を与える約束を受けたが、
  愛妻を探し求める為、兎道川(宇治川)を遡り、近江の国<滋賀県>吾名邑・若狭の国<福井県>から但馬の国<兵庫県>をさ迷ったが思い果たせず、
  出島に落ち着いたが、此処が、今の出石地方で、(難波を播磨・但馬と聞き間違えたのか?)出石の住人俣尾(またお)或いは、
  麻多烏の娘前見津(まえみつ)を娶り、荒蕪荒廃の此の地を田畑耕作・樹木移植等殖産した。
  天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。出石神社の祭神で、製鉄の神様と言われている。
   其の出石神社が有る出石町は、天日槍誕生の地慶州市と1991年11月7日姉妹都市提携を結んでいる。

  * 天日槍比売詐曾夫婦は、太陽神太陽神を祀る巫女だったのです。

八百萬の神が存在するが、其の中で太陽を意味する神は、<天照大神>と<天日槍>しか居ない。

   元祖昔脱解が日本で生まれ・始祖天日槍が大韓民国から来たと言う事も、東亜友誼慈業研究会 設立の要因です。

【三宅連(むらじ)の祖先・田道間守(たじまもり)或いは、多遅摩毛理】
      (連(むらじ)とは、制定的姓[かばね]の一つ。「群(村)主」の[むれあるじ]の転化とされるが、古代朝鮮職制の「村主[すぐり]」と、
     集団首長を意味する「里/동네」と、主長を意味する「連/연」の合成語で、国神系として安曇氏族、帰化系として三宅氏族が特例で連姓を得た)

* 古事記と日本書紀に拠ると、天日槍の子但馬諸助(もろすけ)或いは多遅摩母呂須玖(もろすく)→多遅摩斐泥(ひね)
 →但馬日楢杵(ひならき)或いは多遅摩比那良岐→田道間守(但馬清彦或いは清日子は田道間守と兄弟です)は、
 垂仁天皇(垂仁天皇九十年二月)の命を受け不老長寿の橘の実(非時香菓)と、黒砂糖を求めて、
 常世国(とこよのくに)<大韓民国済州島/ 대한민국 제주도>への旅に出た。
  遥かに遠い荒波を渡り、十年の歳月を命がけで橘の実と黒砂糖を捜し求め、持ち帰ったものの、天皇は崩御。天皇陵に橘を捧げつつ、精魂尽き息絶えた。
  現在でも、奈良の垂仁天皇陵には右近の橘が植えられていて、田道間守は、和菓子の神様と言われている。(田道間守の名は、橘の実が語源と云われる)
 【画像解説】左上から、垂仁天皇陵手前の小島が、田道間守の墳墓。二荒山神社の大国田道間守像。輪王寺大猷院家光廟の三宅輪宝。
      2014年6月2日大阪から、我が分家土岐氏一族の本家が、訪ねて来て、明智光秀は、本能寺の変以降生き延び、天海慈眼大師と名を替え、
      徳川家康に仕え、江戸遷都や日光に東照宮を造り、家康公を御祭神におまつりしたと云い、
      名奉行遠山の金さんの遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)は、
      光秀の九代後裔で、片山善博元鳥取県知事夫人は、三宅姓と云う。
       然し、色々考えてみると三宅弥平次と名乗った明智秀満光秀と二代で、天海を名乗ったと云う説が、正解と思う。
       何故なら、江戸・日光山を開く前、長楽寺喜多院に居たのは、我が大先祖児島高徳公の墳墓が、近かった事に依る。
       三河三宅田原藩一万二千石が、代々日光祭礼奉行を幕府から任命された事も、関連が有る。

【備前源氏中興の祖・佐々木盛綱公(ささきもりつな) 法名 西念
* 宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木荘に下向し、其の地に土着した孫の経方が佐々木氏を名乗り、
 其の経方を曽祖父とするのが、佐々木盛綱(加地盛綱)で有る。
  盛綱の父佐々木秀義(源三秀義)が、平治の合戦に源氏方が大敗した際、佐々木荘を捨て、
 一族郎党等を引き連れ、伯母の嫁ぎ先である奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼り都落ちした。
  其の後、盛綱は三河守源範頼(頼朝の異母弟)に従い、「藤戸合戦」に参戦し、
 遠縁の備前国邑久郡豊原庄の豪族飾磨三宅氏三宅武範の知恵(平家物語の巻十[藤戸の事])に依り、
 勝利を得、其の功績で頼朝から、備前児島を与えられ、備前源氏と称す。
  其の後、上野国・越後国・讃岐国・伊予国を統治し、盛綱自身は上野国磯部(古くは伊勢部)荘を隠棲地とし、
  東磯部四丁目の松岸寺に佐々木盛綱公夫婦の墓が有り、範長公は佐々木盛綱の六世裔で有る事から、
 我が遠祖高徳公・先祖三宅藤原芳高等一族は、磯部城に在する盛綱一族と行き来していた。
  尚、盛綱の弟佐々木四郎高綱の後裔が、乃木希典大将で有る事は有名です。

  高徳公開山の高徳寺と宗派も同じ、世界遺産<関山中尊寺>の貫主は、佐々木姓で有り、作家の今東光も、貫主を務めた。
【画像解説】
   左上から、佐々木盛綱と妻の早瀬の墓。
    佐々木盛綱の伯母の嫁ぎ先である奥州平泉の藤原秀衡。<藤原秀衡の履歴書>
    赤穂市坂越の和田備後守範長公・今木太郎範季公・今木次郎範仲公・中西四郎範顕公・松崎彦四郎範代公の墓。
    そして、父が婿に入る前、曾祖母・祖母と共に、墳墓を守った21歳の母。満弐歳の私。
   三菱ふそうに、四トン新車を注文して、出来る間、借りた代車で、
  父と行った八戸の帰り、立寄り、参拝した中尊寺の父(1973.8.5)。

  合戦に入る前、大将が自分の素性を名乗るのが慣わしだが、
 盛綱は藤戸合戦の際「今日、海を渡り、先陣駆けた大将を誰と見る、人皇五十九代宇多天皇の皇子、
 一品式部卿敦実親王より九代の後裔佐々木源三秀義が三男、佐々木三郎盛綱なるぞ、
 平家の我と思わん者、侍として、大将として、落ちおうて、組めや組めや」と大きい声で告げた。
  この様に、私達の先祖達は血筋を入れて、名乗った訳ですが、今は総理も大臣も血筋が悪く、
 遺伝学上最悪な従姉弟同士の結婚をした者が、国のリーダーに成れる世の中は異常だ。


【児島高徳の曽祖父・頼仁親王(よりひとしんのう)後鳥羽天皇第四皇子
* 承久三年(1221)二十歳の時、備前国児島へ流され、五流尊瀧院の祖と成り、我が大先祖児島高徳公の曽祖父で有る。

【三宅一族中興の祖・和田範長公(わだのりなが) 法名 一結諦等居士
* 和田備後守藤原三宅範長は、備前源氏佐々木盛綱→信実→加地次郎実秀→実綱
 →加地源太左衛門時綱→綱秀の子として、建治二年(1275)備前の国邑久郡和田村に生誕。
  児島太夫三宅範勝に後継無く、養子として迎えられる。

  溺愛の孫児島高徳を七歳の時、養子に向え、文武・陰陽道・儒学等を訓え、
 高徳元服後、共に全国を転戦、延元元年(1336)三月二十日傷深い高徳をこの地の妙見寺の良覚上人に預け、
 脇屋義助の居る三石に向かう途、早朝、赤松一族の宇野重氏らの軍勢と遭遇。
  降伏を乞うたが此れを断り、僅か八十三騎で三百騎以上と交戦したが、手に負えず、阿弥陀宿迄後退。
  大日寺に到着した時は、六騎と成り、範長は責任を感じ、最早此れ迄と自害した。五十九歳。(仝二十二日)
  追っ手の大将宇野重氏が来て、<笠符に裾黒>の紋を見て思わず、
 「嗚呼!我が親戚の児島・和田・今木の人達では無いか判っていたなら、命に代えても助けたものを」と嘆いた。
  一人残った和田四郎範家は、其れを聞き、「和田四郎範家此処に有り」と叫ぶと、重氏驚いて、
 妹の婿が生きて居たのを喜び、大日寺に範家を匿い、五人の遺体を仮埋葬した。

  《此の時点で我が一族は、高徳と範家の二人だけに成ってしまったので有る》
  《此の合戦時、盟友新田義貞の軍勢は、阿弥陀宿の東一里程の所に居たと言う》
  《南北朝時代は、此の様に血族・婚族も合い交える戦いだったのです》

  《此の時、範長の後を追って自刃したのは、今木太郎範季・今木次郎範仲・中西四郎範顕・松崎彦四郎範代》画像上↑。

  * 範長が養子として、三宅一族に加わなかったら、忠臣としての高徳の出現は、無かったろうから、範長公は、三宅一族中興の祖と言える。

【 下のスライドショー画像解説 】
A  1961年11月24日、命日・祭礼の日、妹達と墳墓を訪ねた後、旧古海の渡し付近の画像です。
B  墳墓の南側は坂東太郎の土手に成ります。(画像Aも、背景は坂東太郎)
C  高徳公六百年祭開催に尽力された方々の御芳名が刻まれた碑。
D  仝 拡大画像。
 真正系図確認の後裔。23.11.24 命日。チョークで、見易く撮影。
E  宝篋印塔と右に記念碑。(石碑と宝篋印塔の後が歴代児島姓住職の石塔)
 (此の住職達の石塔は、墳墓の下に有った物で、三宅姓と三宅輪宝を与えて、
貰って、居なかった為、移動は、失敗だった)
F  遠く赤城山方面。(左から、墳墓を見た順です)
G医王山延命院高徳寺の入口左の看板です。
H  寺入口右の岡野鉄次郎書<児島高徳公高徳寺の由来>を記載の看板です。
I  昔の侭の山門と鐘楼です。此の手前右側に松尾芭蕉参拝記念碑有ります。
J  新築された高徳寺本堂です。
 高徳寺は、残念ながら住職は<赤岩山光恩寺>から通いです。
 (私が子供の頃、古い庫裡には、老婆が住んで居ました)
K  児島高徳公六百年祭奉納北の湖の横綱土俵入りの際、
北の湖等が休憩した古海公民館です。(当時)
L  児島高徳公自作の木像です。(何れも、小生は撮影なので写って居ない)
 北の湖横綱の土俵入り 高徳公軍中守護神像 高徳寺御本尊様
 2013年6月6日、愛妻といわき白水阿弥陀堂
 ブルーガイドパック倉敷・山陽路〕の作楽神社案内の項。
60.11.24命日・祭礼の日、妹達  alt= 名簿は、福田総理の高い碑と同じに、先に造られた 仝 拡大 真正後裔 福田総理の高い碑 反対側の灯篭は、3.11の地震で、崩壊 高徳寺入り口 岡野鉄次郎の解説文 高徳寺山門 仝 本堂 高徳寺西の集会所 高徳公自作木像 北の湖横綱の土俵入り 高徳公軍中守護神像 高徳寺御本尊様 13.6.6愛妻と白水阿弥陀堂 ブルーガイドパック〔倉敷・山陽路〕
※ 上のyoutube動画は、子供達が唄う<田道間守のうた>と<児島高徳>です。
              
文部省唱歌児 島 高 徳
1 船坂山(ふなさかやま)や杉坂(すぎさか)と
  御(み)あと慕ひて院の庄(いんのしょう)
  微衷(びちゅう)をいかで聞えんと
  桜の幹に十字の詩
  『天勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ
  時范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず』
2 御心(みこころ)ならぬいでましの
  御袖(みそで)露けき朝戸出(あさとで)に
  誦(ずん)じて笑(えますかしこさよ
  桜の幹の十字の詩
  『天勾践を空しうする莫れ
  時范蠡無きにしも非ず』

   大正3年6月の[尋常小学唱歌(六学年)]から、
  昭和7年の[新訂尋常小学唱歌]迄掲載され、
  忠臣児島高徳の故事として、
  戦前迄教科書にも載りました。

     * 此の碑には、高徳公六百年祭開催に尽力された方々の御芳名が刻んで有ります。
    内閣総理大臣 福田赳夫     群馬県知事 清水一郎  前建設大臣 長谷川四郎
    通産政務次官 中島源太郎    第一新聞   宮家史朗  等々
    高徳公末裔 東京都  三保ヶ関国秋  仝   増位山太志郎  仝   北の湖敏満
          尾島町   宮下八郎   太田市 稲村陸合一   仝   稲村伝
          月夜野町 入内島金一   仝   入内島一崇
          大泉町 三宅英四 (私の父)
    高徳公史跡保存会長   細谷清吉    高徳公顕賛会長  稲村陸合一
    高徳公忠桜会長     庭田尚三    新田吟道会長   岡野鉄次郎

【画像解説】   高徳寺入口の由来の看板を描いた太田市芸能連盟の岡野鉄次郎は、何度も、我が家を訪問し、此のチラシを作成し、PRして呉れた。
         地域紙第一新聞のコラムで、「児島高徳公」と題した文章を纏めた物が、此の宮家史朗著「児島高徳 実在論」で、
        著者は、夫婦で、良く来て呉れ、小生の妹は、デザイナー志望の為、画を描く、用紙を御土産に貰うのが、良かった。
         そして、高徳公の足跡を辿る為、運送業を遣って居た時代の1976年(昭和51)5月15日早朝の壇の浦レストランにて。
        (父母を連れ、長崎に向かう途中。何度も、九州に行ったが、未だ、赤間神宮に「安徳天皇神器八咫鏡」が、有るとの情報は、得て居ず)
         母が子供の時代迄、所蔵して居たと云う、高徳公が携行して居た燼余八咫鏡(じんよやたのかがみ)は、
        八咫鏡・剣・玉の三種の神器で、天孫降臨皇位の象徴の証として、皇室に継承されて来たが、長い歴史の間、
        様々な変化が有った為に、幾度か、作り直され、現在、皇居には、模造品が安置されて居る。
         後朱雀天皇の時代に、火災で焼け壊れた鏡が、燼余八咫鏡で、
        処分されずに残って居た為、平家に縁の有る安徳天皇が、八歳源平壇の浦合戦で、入水崩御の時、此の神器が海没し、行衛不明に成った。
         然し、後鳥羽天皇は、鏡と玉は、海中から探し出す事が出来たが、剣は発見出来無かった。
         後鳥羽天皇は、承久の乱で、隠岐に流された際、帝位に返り咲く証とする為、秘密裏に燼余八咫鏡を携えが、其の地で崩御した為、
        遺骨・遺品が、児島尊瀧院に居る冷泉宮頼仁親王に届けられた後、我が祖、高徳公が、真贋二つを管理し、携行して居た物は、偽物で、
        所蔵して居た本物が、昭和卅三年、「美作後南朝正史研究会」会員の春奈義雄に由って、兵庫岡山の県境万能峠の天皇谷から、
        発掘された此の画像の「安徳天皇神器八咫鏡」は、如何なる経緯で、我が家から、赤間神宮に渡ったのか?定かでは無く、
        小生の高祖父佐太七等が、建立した児島神社の御神体等は、全部白石うめが持ち去って居るので、無い為、
        此の赤間神宮の「安徳天皇神器八咫鏡」を児島神社再建し、御神体にしたいと浅田晃彦は、著書『児島高徳と新田一族』の巻末で、唱って居る。
         此の八咫鏡は、美作後南朝高仁天皇の即位に使われた為、其れを知った将軍秀忠が非常に怒ったので、
       脅威を感じた高仁廃帝は、「万一の事が有ったら、地中に埋めよ」と侍従の妹尾四郎兼浄に命じ、寛永拾年八月に、其処に埋めた物で有る。

 【人物解説】
  ● 福田赳夫・中島源太郎に付いては、自己紹介三宅藤原氏族会 を御覧下さい。
    二十一歳から、中島源太郎後援会のメンバーで有った関係で、父と二人福田赳夫総理に、此の事を陳情した時、実弟の宏一秘書が、
   赤坂プリンスホテルの清和会事務所と議員会館に詰めて居て、話を聞いて戴きました。
    其の後参議院議員に当選し、私は恩義から、度々前橋の事務所を支援に訪れました。康夫元総理が、赳夫総理秘書の時代です。
    当時地元では、総理の事を大先生、弟を宏一先生と呼称していました。
  ● 宮家史朗は、「児島高徳実在論」の著者。(遠祖の墳墓を守っているの家が有る事で、
   此処の旧354国道脇に移り住み、タブロイド版の「第一新聞」を発刊し、最も父と仲の良かった親戚で、
   私は、「叔父さん、叔父さん」と呼び、太田市に越された後も、ス-パーカブで良く来て呉れました。
    幾度も、此の取材の為、関西方面に、出掛けた訳だが、「東海道本線が不通で、小田急で、行った」と聞いた事も有った。御苦労様でした。
    娘の宮家ゆかが、<霧ケ峰慕情>(右下に、画像と歌詞有)で、デビューされたのですが、縁有り気か?
   私の父の姉が、同じ名のゆかで、気に入り、何枚も、レコードを買いました。
    印刷業に転業した太田市の自宅を訪問した時、坂本竜馬の手紙を見せてくれたのが、昨日の様です。(高徳公生誕の尊瀧院縁の人)
【画像解説】   霧ケ峰慕情宮家ゆか 唄
         1,淡雪に踏まれてもなお夏を待つ     花一輪の霧深く君の影消えて忘れじの丘
           今日も来る想い出の日は遠く      あヽあヽ霧ケ峰 霧ケ峰
         2, 緑の海分けてかけ行く見渡せば     白樺湖浮ぶ霧に泣くあの姿想う
           忘れじの丘捨てた石現在もなお残されて あヽあヽ霧ケ峰 霧ケ峰
         3,強清水宿の灯消えて高原の風もさヽやく 霧流れ星空しのぶ
           忘れじの丘独り来て明日の旅想う時   あヽあヽ霧ケ峰 霧ケ峰

         小諸方面からの白樺湖手前、大門峠は、登りがきつく、然も、日陰で、雪が凍り、酷い目に遭いました。
       ◎ 真言宗豊山派の成就院中興の僧龍賀大法院が、
       我が祖「三宅太郎左衛門尉藤原芳高」を葬った、筑肥地山が有った県営太田ゴルフ場。
         現在は、スバルモータープール。(1968.冬、群馬県初のゴルフ場で、小林旭等が来ていた)
       ◎ 新田義貞公が越前国藤島で討死後、一年程で発病、左手に法華経五巻を持ち、右手に剣を抱え、崩御の後醍醐天皇廟にて。
        (我が大先祖と後醍醐天皇は、従兄伯父甥の直系尊属。07.04.13桜満開時、愛妻と墓参)
  ● 三保ヶ関国秋は、増位山太志郎(三保ヶ関昇秋)と北の湖敏満(相撲協会理事長・養子)の師匠で父親。
    (北の湖入門時の話、北天佑の名付の意味等を聞いた事が思い出され、
   そして、澤田昇[増位山太志郎]の1972年12月の雍子夫人との結婚披露宴・
   80年4月の大関披露宴に、招かれ、宮家史朗と共に、会場のホテルニューオータニに行き、祝って来ました)
  ● 稲村陸合一は、八木節の名手。
  ● 宮下八郎は、児島高徳の娘徳子の嫁ぎ先で有る義貞別邸武蔵島花見塚の末裔。
  ● 入内島金一は、田中角栄の手下で、「室町産業」を経営していた悪徳人物。
  ● 入内島一崇は、金一の倅で、児島高徳公十九世裔を名乗るが、・・・。
  ● 三宅英四は、私の父。<公の後裔を名乗る内、三宅姓で、家紋「三宅輪宝」を使うのは直系のみです。>
  ● 細谷清吉は、新田一族の細谷右馬助の末裔との事だが、不明。
 【画像解説】  左から、1、86年1月17日、<児島高徳>を著した豊田市の小川喜数が、墳墓等訪問。
             2、87年6月11日、 作楽神社総代等が、墳墓等訪問。
             3、87年10月12日、 やはり、白石うめの家に有った児島神社の宝物。此の兜は、阿久津稲次郎が奉納した物
     何れも、上毛新聞記事で、細谷清吉は、我が家等、血縁に連絡が無く、無視去られ、和菓子の商標に、<児島高徳>を売却し、使い込みもした。
     <親の因果が子に報い>か?全盲で、新井俊邦が、杖替わりで、戸沢久夫太田市長が、教え子の為、仕方なく、会長に同意した。
             4、和気町藤公園の庭田尚三銅像。
  ● 庭田尚三は、戦艦大和の設計者の一人で、海軍中将だった人で、
   此の方が居なければ、行政の協力は得られませんでした。岡山から何度もおみ足を運んで戴きました。
   * 既に、黄泉の国に逝かれた方には、敬意を表し合掌します。
【大先祖・児島高徳公(こじまたかのり)】 法名 志純義晴大徳覚位
   (「南朝五忠臣」とは、楠木正成・北畠顕家・名和長年・新田義貞、そして我が遠祖児島備後三郎藤原三宅高徳です。
   中でも、鳩派の楠木正成に対し、信念を曲げない鷹派の児島高徳と言われていたのです。)
   (高徳公曽祖父夫人は、藤原信実の第六子、公の妹は、藤原氏に嫁ぐ)

 * 三河三宅氏系図に拠ると、天日桙命→多遅摩諸助→但馬日楢杵→清彦→田道間守→(中略)
 →郷守→重範→範守→範勝→和田範長児島高徳
  児島高徳は、開運除災とご祈祷の本山倉敷市五流尊瀧院(天皇家の直系分家を表す、宮家姓)で、
 後鳥羽上皇の第四子頼仁親王の第四世の頼宴大僧正を父に、
 佐々木盛綱を祖とする和田備後守藤原三宅範長の娘を母に、正和元年(1312年)生誕。
  父の教えに従って、和学を学んでいたが、後鳥羽上皇や花園天皇・後醍醐天皇が北条氏の為に酷い目に遭っている事を聞き、
 武士に成って、北条氏を討とうと決心し、外祖父の和田備後守藤原三宅範長に預けられた。
  高徳は、元服後児島姓を名乗り、一門の頭領として北条氏・北朝方討伐に孤軍奮戦した。
  元弘二年(1332)三月七日後醍醐天皇が隠岐に流される時、天皇奪回出来ず、
 院庄行在所の桜の幹に天莫空勾践 時非無笵蠡の十字詩を刻み天皇に忠誠を誓った。
  児島高徳は、父和田範長と共に、伊勢の国の国司(現在の知事・県警本部長の職)を任ぜられた為、
 南朝暦の正平時代(1347~1370)一族を引き連れ、備前を出て、伊勢に入り、国司を務めた後、三河に在す。

  <私は、運送業を営んで居た時、其の跡地に有る作楽神社を父母と参拝した際、
  新田義貞の弟脇屋義助の四国征伐に従軍したが失敗し、義助は病死。義助の遺髪を預かり、其の兄義貞を今度は助け、
 其の縁でここ上野の国<群馬県>に、天授六年(1380)三月古義真言宗医王山延命院高徳寺を開山しながら、
 南朝の勢力回復に努め、弘和ニ年(1382)十一月二十四日七十二歳で其の生涯を閉じた。
  [正和元年(1312)生誕で、永徳ニ年没したと成ると七十歳だが、数え年と陰陽五行説等の元日から節分迄の生まれは、+1歳の数え方に成る為]
 管理事務官の田口熊雄に御会いし、寄付をして来た事を思い出します。>院庄作楽神社にて、買い求めた絵馬と那須乃木神社のお守り。
  記念碑に揮毫戴いた福田赳夫総理に御出で頂き、高徳公を慕う御挨拶を賜わる。福田総理実弟・宏一議員色紙。そして、庭田暁山名刺。

  児島高徳自身が「太平記」の作者小島法師(共作者名)の一人で有ると言う。
  (尚、高徳の妻は、伊予の国の瀬戸内水軍河野和道[河野氏一族]の三女の貞子。其の縁から私の母も貞子)

  全国に墳墓が九箇所有る事で、児島高徳の存在を疑う学者が居ましたが、
 児島高徳の研究者で、忠桜会会長庭田尚三元海軍中将<戦艦大和の設計者>等何度も訪問され、
 私の家に伝わる資料等で、私の家から二キロ程の処に有る墳墓が本物と全国に報道され、
 高徳公没後六百年忌の名誉会長に福田赳夫総理<当時>をお願いし、北の湖・増位山・闘竜を招き、
 墳墓前で横綱の土俵入りの奉納等、大泉町を挙げて執り行いました。

  尚、高徳は、四国伊予で亡くなった脇屋義助の遺髪を義助の故郷の萬明山聖徳院聖宝寺に送り届け、
 臨終の有様と、伊予の国分寺の住職智承の諡った法号「正法寺傑山宗栄大居士」を語り、
 この後、聖宝寺は[古義真言宗脇屋山正法寺]と改称した。
  私は、父と正法寺を訪ね、遺髪塚を参拝し、住職の好意で、本尊の純金聖観音(しょうかんのん)も拝観し、御守りを戴いて来ました。
  2011.06.04 三十七年ぶりに亡き父の代わりに愛妻を連れて、正法寺を訪問しましたが、再びの拝観は出来ませんでした。
 【画像解説】  左から、1、整備される前の墳墓で、三代女系だった名家に婿入りし、尽力した父。
               (大卒塔婆は、宮下八郎邸の欅の提供を受け、稲村陸合一・岡野鉄次郎の尽力と三保ヶ関国秋の揮毫に依り、1974.11.24建立)
             2、寄付金集めに奔走の三保ヶ関国秋
             3、院庄作楽神社にて、1979年の私。(逆光なので、顔判別出来ず)
             4、院庄作楽神社にて、買い求めた御土産の土鈴。(今も、私の机の片隅に有ります)
             5、院庄作楽神社の十字詩桜跡と社殿。(父母を連れて行き、父撮影)
             6、「上毛各地めぐり」の102page。(下記に、詳細有り)

児島高徳公年表(元号は南朝暦)
正和元年(1312)  備前の国児島五流尊瀧院にて、後鳥羽天皇の第四子頼仁親王の四世後裔として、生誕。
嘉暦二年(1327)  七歳の時から、上寺山麓和田郷にて、範長に養われ、元服し、「天地開闢」の旗指物を造る文中に<范蠡>故事を引用。
 前年の嘉暦元年(1326)長男高秀生誕
元弘二年(1332)  和田一族と後醍醐天皇遷幸を船坂山に待伏せたが、奪向出来ず、一人跡を慕い、院庄に至り、
桜樹に十字詩を留め、自ら、范蠡を以て、任ずる意を奏す。此の年、次男高久生誕
元弘三年(1333)  和田範長一族船上山に伺候す。高徳、足利高氏の六波羅攻めの招きに応じず、
千種軍に従って六波羅攻めに名和小次郎と共に善戦せしも失敗し、
主将千種忠顕の無能に憤り、萩野彦六朝忠と共に、高山城に拠り後、和田一族と共に、上寺山麓和田屋敷に帰る。
延元元年(1336)  [太平記巻十六]足利尊氏謀叛し、九州より大軍を率いて、東上の時、新田義助船坂山に苦戦と聞き、
二百の手兵で、熊山に旗を挙げ、赤松勢三千を包囲したが、石戸彦三郎に間道から、夜討され、
胸部骨折の重傷を負い、新田勢が京に上らんとする途、坂越の妙見寺に預けられ、養生する。
 此の時、連れて居た私の祖・次男高久は、歌手増位山の祖・元屋荘次左衛門に預けられるが、
外祖父で、養父の範長等一族五騎は、姫路北宿で力尽きる。
 残った我が一族は、高徳と和田四郎範家だけに成ってしまった。
仝十~十二月  療養全快し、叡山に行幸中の後醍醐天皇に伺候し、単身義貞の許に惟幕の人と成る。
 天皇密かに、恒良親王に「真の神器」と称した<燼余八咫鏡>を譲り、即位させ、
北陸朝廷を義貞に立てさせようとせられた時、我が祖に、此の秘宝を護持する様勅命されるが、本物は保存し、
偽物を造り携行する事に成る。真贋は不明だが、我が家に所蔵して有ったと聞く。
延元二年(1337)十二月  越前金崎城落城前、義貞・義助と共に、脱出し、<燼余八咫鏡>を護る。
延元三年(1338)七月  義貞の杣山城に有りて、叡山の僧徒に牒状を送り、味方を誓わしめしも、義貞の不慮の戦死に依り、北陸征伐に失敗する。
延元四年(1339)八月  <いとこおじ>の後醍醐天皇吉野にて、崩御。後村上天皇神器無くして、即位。
興国元年(1340)  脇屋義助と共に、北陸を遁れ、敗残の兵を率いて、美濃・伊勢路を経て、吉野に帰参し、
後村上天皇に「真の神器」<燼余八咫鏡>を献上し、天皇は真に即位された。
興国三年(1342)  備前児島に帰郷中で有ったが、脇屋義助勅命に依り、四国征伐の軍に従い、日比港から出港し、今治に上陸したが、
義助急死に依り、失敗し、備前児島に帰郷し、其の後、義助の遺髪を萬明山聖徳院聖宝寺に届ける。此の年、三男高貞生誕
興国六年(1345)  [太平記巻二十四]脇屋義治を迎え、旗挙を謀り、丹波国萩野彦六朝忠と通じ、尊氏直義を討たんとしたが、秘謀漏れて、
萩野は降り、手勢を集めたが、直義に逆襲され、義治等と共に、信濃国天竜川の奥、大河原に居の宗良親王の許に逃れる。
正平元年(1346)  宗良親王の許に有り、三河国梅ヶ坪に屋敷を賜って、南朝の荘園だった篠原・伊保地方から、矢作川に沿って、
広瀬地方に至る地に城塞を構築し、兵を養い、此処を第二の故郷と定め、
妻貞子と高秀を呼寄せ、高貞・良寛・徳子(宗良親王の子国良親王の第一子又二郎正治に嫁ぐ)を儲け、
三河三宅の祖と至って居る。
正平七年(1352)  [太平記巻三十一]後村上天皇天王寺行宮に、高徳を召され、
「東国に使して新田・小山(何れも我が家と親戚)・宇都宮一族等と計らい、
北国方面に於いて、兵を集めよ」との勅命を受け、高徳一万の兵を集め、西上せしも、時既に遅く、
男山の官軍敗れ、帝は賀名生に落ちさせ給うたので、後を追い奉答し、賀名生に止る。
正平八年(1353)  [太平記理尽抄]後村上天皇の勅命を受け御側にて、太平記巻十五を文筆し、又多武峯に於いて、
寿永・教円法師等と共に、十二文筆し、単独で、廿二を文筆。
正平二十三年(1368)  高徳は、後村上天皇と<はとこおじ>の間柄なので、常に側近として、内大臣の様な存在で、守護す。
時には、三河に帰り、広済寺を創建したり、城塞を造ったりと三河三宅の基礎固めをして居たが、
後村上天皇が摂津住吉の行宮で崩御せられ、寛成親王を高徳が擁立し、二十五歳で即位。
 此の若い長慶天皇を<いとこおおおじ>として、護り、北朝が奪回せんとして、常に追い回して居た三種の神器を死守する為、
御側を離れる訳には行かなく成ったのと住吉の行宮は危うく成ったので、密かに紀伊国高野山の麓の天野村に行宮を移す。
文中二年(1373)  此の天野行宮を熙成親王擁立失敗の楠木正儀が襲撃するが、漸く難を逃れ、
山路高野山奥の院玉川の尼堂に居る伯母公長慶門院の許に走る。
 北朝方の強要で、楠木正儀一族は後亀山天皇の為に、三種の神器を奪わんと長慶天皇を襲い害いせんとするので、
止む無く、<燼余八咫鏡>を譲る。
天授二年(1376)  然し、渡した<燼余八咫鏡>は贋物で、遂に、近畿地方では、安全の場が亡く成ったので、天皇と三種の神器を奉じ、
旅僧姿で、三河から中山道に出て、新田領上野国に居られた宗良親王の許に赴いて、穩栖した。
天授四年(1378)  長慶法皇高野山麓玉川行宮の難を逃れ、九死に一生を得て、甲斐国富士谷を経て、宗良親王の許に遁避せられて来られる。
天授五年(1379)  高徳は法皇に供奉し、東北巡行に出られ、会津若松から、塩釜・石巻を経て、
村上朝日と村上義時の待つ気仙沼で、会ったものの、朝日と義時は、足利方に殺害され、
法皇は、北畠顕能の分家浪岡城にて、崩御した事にして、更に、佐竹・南部を説かんとしたが、足利勢が強く、
帰途、和賀郡田原妙見寺に杖を留め、有待の書を残し、法皇は弘前市波園に自ら御陵を造られ崩御を装い、
密かに高徳と共に、山伏姿で義貞の鎌倉攻めに出陣願った出羽三山を越え、上野国に帰る。
 (尾瀬ヶ原を通り、会津若松に出たとの書籍が多いが、現在の121号線を歩いたと思われる。
 何故なら、鬼怒川温泉の前後に、高徳・高徳寺・藤原と云う地名が残って居る。
 そして、帰路は、金精峠を越えた為、藤原と云う地名が残って居る)
天授六年(1379)  三月 上野国古海に高野山古義真言宗医王山延命院高徳寺を開山。
弘和二年(1382)  永年の労苦に依り、発病し、十一月二十四日上野国邑楽郡古海村にて、享年七十二(数え)没。(新暦12/29)
 高徳寺と称したのは、住職二世良順からで、高徳公没する迄は、禅庵の様相で、殆ど、南朝の為、東奔西走していた。
弘和三年(1383)  長慶法皇(御年四十一歳)高徳を厚く葬らた後、吉野に「長慶法皇は行衛不明と成った」と偽り、
後亀山天皇の南北朝講和を牽制して居られた宗良親王に立ち寄られ、
九州の懐良親王の許に預けて有った<燼余八咫鏡>を迎えて、
後亀山天皇から北朝の後小松天皇に<燼余八咫鏡>が渡り、南朝は滅亡する。


  ■  横井庄一が、グアム島のジャングル生活で、心の支えとなった言葉は、
    我が祖の「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしもあらず」だったと云う。

【先祖・三宅太郎左衛門尉藤原芳高(みやけたろうざえもんのじょうふじわらのよしたか)】 法名 賢阿院東臨大禅定門
 * 児島誌・三河系譜・沢田家由来書・私の所蔵する正伝記に拠ると、児島高徳→次男高久は、
 父高徳が延元元年(1336)四月十九日の熊山の合戦で胸部骨折の重傷を負い、妙見寺で養生の間、
母の貞子と兄高秀は尊龍院に預けられ、自分は松原山八正寺の堅覚法印権大僧正の弟子に成り、
 (この熊山の合戦の前、正室貞子と高秀・高久を除く、側室の小里(大橋貞省[尾張国海部郡津島四家の内奴野城主で、
 尹良親王の娘・桜姫が妻]の娘)と他の家族を遠縁の上野国磯部城主佐々木秀綱[盛綱の曾孫]に預けた)
 元大関で元歌手の増位山・三保ヶ関昇秋の先祖姫路の豪農元屋荘次左衛門を後見人にした。→(中略)→
 三宅芳高[永正九年(1512)生誕]は児島高徳の六世裔で、谷川岳を水源に日本最大の流域面積で、
 悠々と流れる利根川の畔に眠る高徳公の墳墓を守る為、芳高主従一行三十数名は、
 播磨から三河三宅(田原藩主の祖)で剣術修業の後、児島高徳や新田一族が京都や吉野方面に行く逆経路、天龍川を上り、
 或いは、浜名湖から南朝の道(秋葉街道)を登り、南朝陣営要塞地伊那谷の大河原等で、三年間在し後、諏訪湖に出て、笛吹峠(今の碓氷峠)を越え、
 三河三宅の親戚に当る、ここ冨岡秀信小泉城主)を頼り、永禄元年(1558)四月四十七歳の時、在を求めた。
  (芳高は、高徳と同じ三郎を名乗って居たが、此処に来て太郎を名乗る)
  冨岡三代秀信の家老を務めながら、祖先高徳公の冥福を祈り、護持を続けて居たが、
 永禄十二年(1569)十二月二十六日秀信病死後其の子富岡清四郎大炊介秀親と共に、
 北条氏系武州忍城主成田下総守と現在の太田市古戸で戦い、秀親負傷し、高徳寺で手当後、城内に運ばれたものの死亡、
 私の先祖芳高も深手の傷を負い、翌元亀元年(1570)一月二十三日奇しくも範長と同じ、五十九歳(数え歳)で死去する。
  五代冨岡対馬守秀高の妻妙智尼は、私の家から嫁いだ三宅太郎左衛門尉藤原芳高の娘で、後に、赤城山要津院正眼寺を開基。
  対馬守の法号「要津院殿天性長源大居士」妙智尼の法号「正眼院殿愚安妙智大姉」の位牌を守護しています)

 ★ 皆さんは、《陰陽五行説の陰宅・陽宅》を御存知だろうか。?
  陰宅は、先祖の眠る墓所を云い、陽宅は、其の現世に生きる後裔の在所を意味します。
  其の間の距離は、近いのが望ましく、我が先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高は、
 三宅一族の本家本流として、此処に在したので有ります。

  陰陽五行説に付いて、我が家の正伝記に、範長・高徳共に、後醍醐天皇に命じられ、
 陰陽寮に奉じたと記述が有る。(韓国では、墓所を산소[san-so 山所]と云い、
 陰宅は음택[eum-taeg] ·陽宅は양택[yang-taeg]、そして寺は절[jeol]と云います)
  韓国から来た文化の中でも、
儒学と陰陽学は、素晴しい知識に成ります。
  明堂は、風水上の最良の土地で、陰宅・陽宅に絶好の為、所有争いが多かった。

 * ですから、小生の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が此処に居を構えて、
  代々今年で四百六拾六年在住です。
 * 天日槍命が落ち着いた、出石町を是非一度訪れて見たいです。
 * 小生は、児島高徳公直系同族会理事長として、日本氏族会の常任理事に選ばれましたが、
 当時多忙で、若かった為、加わる事は有りませんでした。
 * 二千年前韓国から来て、私の代で何度も韓国に行く事に成り、そして近い将来韓国で暮すつもりです。
  一衣帯水の日本と韓国なのに、歴史を見失ってしまった事が悔やまれます。
  yahoo!ブログに、姓氏(苗字)で判る私達のルーツ。 と書きましたが、
 三宅浮田児島松崎和田天日槍命児島高徳公の末裔凡そ百五十万人と、
 三宅氏を名乗る十八万人の内の幾人かの人に此れを読んで戴き、
 日の目を見た高徳公の墳墓に参拝戴ければ、代々守って来た甲斐が有り、幸甚です。
 * 我が家に伝わる「正伝記」の写しは、群馬県立文書館に、父の名前で所蔵されています。
   尚、「正伝記」に付いては、Wikipedia児島 高徳の「生没年」の項目に、記載が有ります。

 ▲ 即ち、高徳公の子→長男太郎高秀(宇喜多高秀)は、戦国大名岡山城主五十七万石宇喜多秀家の祖。
   次男次郎高久(三宅高久)は、松原山八正寺・姫路の沢田(古くは、左和田)家と、私の祖
   三男三郎高範(三宅高範)は、挙母藩主から、弐万石田原藩主と成った三河の三宅氏の祖。
   四男良覚(母は小里)は、岡崎大林寺住職に成り。
   長女徳子(母は、上州・妙義の人)は、国良親王の子宮下正治に嫁ぎ乍ら、
  父高徳公の墳墓を守って、応仁元年(1467)五月十六日九十九歳没。法号国照院壽佛房。

☆★ 全国に九箇所有ると言われていた<児島高徳公>の墳墓。★☆
  1、 備前の国児島郡林村
   三宅屋敷跡と言われている処、児島高徳が、生誕した五流尊瀧院に此処で、没したとの記述や伝承無し。

  2、 備前の国児島郡木見村
   院庄作楽神社創説者で、児島高徳の研究者道家大門に依ると、
  備後太右エ門と言う人の先祖の供養五輪塔で有ると言う。

  3、 播磨の国揖西郡坂越村妙見山
   脇屋義助の軍勢と合流する約束に成っていた処で、熊山旗挙の時、重傷を負った高徳は、父範長に依って、
  此の地の妙見寺の良覚上人に預けられ回復後、範長と謀り、高徳を死んだ事にして、墳墓に成ったのです。

  4、 河内の国観心寺
   吉野で病死と言う説で有るが、吉野には一度行っただけで、再び帰る事は無く、病没は在りえない。
   後村上天皇の御陵桧尾陵の地。
※ 上のyoutube動画は、大事な血族の歌手御二人です。
  5、 出雲の国能義郡雲樹寺 此の寺が、後醍醐天皇の勅願所だった為だろうか。?出雲は、脱解王生誕の地。

  6、 土佐の国高岡郡半山郷春日神社 高徳の後裔の一人が先祖を祭礼する為の墳墓だろうか。?

  7、 三河の国加茂郡東広瀬村広済寺(現在豊田市東広瀬)
   正平元年頃、高徳は、京都に上がった処、時の所司代都築入道宥俊に夜襲を駈けられ、
  命からがら伊勢路に逃げたが、追撃厳しく、三河に逃れ、伊良湖岬に上陸した時、
  従う者は、僅かに十六人で、一旦、信濃に入ったが、三河に戻り、
  高橋荘伊保郷(後の西加茂郡猿投町大字殿悔津、現在の豊田市の一部)に入り、
  民家に泊めて貰った夜、高徳は、奇怪な夢を見た。
   其れは、備前熊山で、戦った時に戦死した家来達が、血みどろの姿で現れ、声を揃え、
  「我々は、誠に残念です。勤王の事、必ず、達成の為、義兵を再び上げて下さい。
  必ずは援けます」と声涙と共に、
  懇願する夢で、目覚めた高徳は、連れて居た、
  此の夢を長子勘解由高盛(高秀十九歳・後の宇喜多秀家の祖)に話すと高盛も、
  同じ様な夢を見たと云うので、高徳は、此処に城を築き、其の後、三子髙貞には、伊保郷に築城させた。
   そして、現在の豊田市内に、一族の城四つを有して居た関係で、此処が、墳墓と云われたと考える。
   豊田市広瀬・枝下・猿投は、三河三宅発祥の地で、我が一族多く、此処古海真実の墳墓を参拝して欲しいです。
   尚、此の広済寺は、長子高秀が、建立した御寺で、
  高徳の木像(三河三宅康貞が安置)や遺品を所蔵して居る為、訪れたい。

  8、 陸中の国和賀郡妙見寺
   東北巡幸の際、逗留したが目的果たせず、「有待」(うたい・頼みにする処が有る)の二字を残し、
  墓碑を立て、上野の国に帰還したので、
  此処で僧に成り、正平二十年(1365)乙巳五月十三日没との事は間違いで有る。
  (奥州平泉の藤原秀衡に祖佐々木盛綱の父の伯母が嫁いでいる縁で行く事が出来た)
  (先祖が、新田義貞に仕えた新田十六騎の一人だった高山彦九郎は、奥州行の際、
  石巻湊で、高徳公が、御醍醐天皇の冥福を祈り、建てた大塔婆を此の地の人が、
  保存していた事を聞き、再建したと高山彦九郎正伝に有り)

 ★9、 上野の国邑楽郡大川村古海高徳寺  高徳自身が開基の寺で、天授六年(1380)庚申三月建立。
   法号は、「志純義晴大徳覚位」と称す。宗派は、高野山真言宗。
   本尊は、大日如来。明和四年(1767)火災消失し、翌年十三世宥寛が再建。鐘楼脇に、枝垂桜の老木

*  何故こうも多く、墳墓が有るのか?
   児島高徳公は、北朝勢に対する戦略として、自身で、墓碑を立て、行方を晦ます手段としたのです。
  永徳二年(1382)壬戌十一月二十四日没と記述の、私の家に伝わる「青銅霊碑」「正伝記」等で、
  此処の墳墓が本物と立証される。

   ≪太平記と高徳公
    現在、太平記は、南北朝の唯一の史書として、公認されて居るが、
   明治二十年頃は、文部省資料編纂官だった重野安釈博士は、此の書を評して、
   「一部は、史実を伝えているが、多くは、虚構捏造の記事で有って、其の作者小島法師と云う人は、
   洞院公定日記に依れば、凡そ、卑賎の生まれで、文筆に優れた坊さんで、其の名文を振るわんが為に、
   史実から遠く離れて、架空の構想で、書いた牽強付会の軍記物語で有って、
   史書としての価値は無く、信用しがたく、青砥藤綱の滑川の一文銭探しと児島高徳だ」と云い、
   上野不忍池湖心亭での史談会の会席上、
   「高徳の事績は、太平記に有るだけで、他の史書に傍証無、小島法師は、高徳本人で有って、
   自己宣伝の為に、捏造し、其の忠誠を誇示した」と話した処、
   此れが、端た無くも、大問題と成り、天下の大歴史家が、軽々しくも、
   南朝の忠臣中、最も、有名な桜樹題字の高徳公を抹殺した事は、許せ無いと非難の的と成り、「抹殺博士」と罵られた。
    然し、自説を翻さず、堅持して居たが、明治三十三年頃、神田幸平秘蔵の「古写本太平記」を読み、
   付随する「太平記秘伝理尽鈔」の「名義並来由」を更に、読んで、
   各巻筆者は、各々分担して、書いた物で、高徳は、十二・十五・廿二の巻を執筆して居る事を悟ったが、公然と取り消さず、
   中村徳五郎児島高徳」(明治四十三年四月発行)・田中義成南北朝時代史」(大正十一年九月発行)等に依り、
   又、明治三十六年、播州平野に於いて、陸軍大演習が行われ、明治天皇が行幸有りし際、姫路市北宿に於いて、自刃した和田範長
   そして、児島高徳に対し、位一級を昇叙せられ、範長に正四位高徳に従三位を追贈せられ、以て、高徳親子の架空説に、終止符が打たれ、
   又、当地に残って居る史実に依り、重野安釈は、面目を失い、架空説の元凶だった久米邦武は、高徳公実在が証明された後も、
   其れを認めず、遂に、学界から、追放され、「真の抹殺博士」の汚名を残した。

  ■ 「公」とは、『南朝正統論』に依り、明治初期「南朝三十五忠臣」に天皇が贈位。
    そして、仝中期に追贈位。(数字は明治其の年)
児島高徳16年正四位 36年従三位和田範長16年従四位 36年正四位
新田義貞 9年正三位 15年正一位脇屋義助16年従三位
新田義顕42年従三位新田義興42年従三位
新田義宗42年従三位楠木正成13年正一位
楠木正行 9年従三位 30年従ニ位名和長年16年従三位
菊池武時16年従三位 35年従一位菊池武重35年従三位
菊池武光35年従三位菊池武政44年従三位
菊池武朝44年従三位
結城宗広16年正四位 38年正三位結城親光38年正四位
日野資朝17年従ニ位日野俊基17年従三位
桜井茲俊16年正五位 36年正四位得能通綱17年正四位
土井通増17年正四位足助重範24年正四位
南部師行29年正五位南部政長41年正五位
土岐頼兼38年正四位多治見国長38年正四位
北畠親房41年正一位村上義光41年従三位
六条頼元44年正四位阿蘇惟直44年正四位
阿蘇惟澄44年正四位五条頼治44年従四位
宇都宮隆房44年従四位松浦定45年従三位
 ■ 三十五の忠臣が居る中で、元弘元年故郷児島で出兵以後、永徳二年没する迄、五十一年間、
  終始、後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の四代の天皇に忠節した忠臣中の忠臣は、
  我が大先祖児島高徳公以外には、居ないので有る。

 【画像解説】   左上から、◎ 児島神社参道と児島神社鳥居。そして、児島神社社殿(動画付)。
          ◎ 児島神社手前の木曽御嶽記念碑野見宿禰石碑。
            児島神社から、見えた雪帽子の富士山児島神社の南の坂東太郎(利根川)下流を望む。
          ◎ 動画は、韓国の国民銀行に口座を開いた記念品の李朝白磁の湯飲みが、盗まれ、安物に替わって居た事
           左側の霊碑の真ん中に、「伊勢国司三宅連名状 」と有り、右に、和田備後守藤原三宅範長の法号「一結諦等居士」。
           左に、児島備後三郎藤原三宅高徳の法号「志純義晴大徳覚位」と有り、曽祖父が、頼仁親王の為、皇列と有ります。
           もう一枚に、三宅太郎左衛門尉藤原芳高の法号「賢阿院東臨大禅定門」の文字が彫られています。
           二枚共、純金の縁取りと台座だったのですが、戦争で削り供出してしまったと伝え聞きました。
           そして、作楽神社に有る「帰還前の姿の像」。

☆★ 児島神社。★☆
  児島神社は、明治十二年(1879)十二月、児島高徳公後裔で、子爵の三宅康保(田原藩最後の十二代藩主)と私の高祖父三宅佐太七
 「児島高徳朝臣墳墓考」の著者で、世良田八坂神社神官の、阿久津盛為、更に、県会議員白石好等が神社創設を謀り、
 明治十五年十二月官許を得て、仝二十一年十一月社殿と社務所を竣工し、其の境内千三百九拾五坪。三月と十一月の二十四日を例祭とした。
  祭神は、勿論児島高徳朝臣です。宝物として、下記を所蔵したが、
1、 高徳朝臣真筆([清風]と書かれた)額 一枚 貴船神社 柴崎宣弘宮司 御神体 絹で表装の家紋入り屏風 明治二十二年十月寄進
2、 太刀(私の家に伝わった[銘 愛石丸]) 一振 私の高祖父 三宅佐太七 高徳が使用の備前兼光作名刀 明治二十二年十月寄進
3、 短刀([銘 貞宗]) 一振 中野村(邑楽町) 小島喜四郎 高徳娘徳子が吉野より携行した物 明治二十三年三月寄進
4、 神鏡(八稜銅鏡) 一面 東京神田淡路町 増田英治 八綾銅鏡で裏に鈕有 明治二十三年三月寄進
5、 泥硯(高徳が使用した硯) 一面 妙義神社 祠宮白井巌の遺志を継ぎ白井幸次郎 恵比寿の像を彫刻、裏に高徳の名と花押 明治二十五年四月寄進
6、 太刀(白鞘) 一振 高崎町(高崎市) 矢島八郎 三條近作の作 明治二十六年十一月寄進
7、 甲冑 一式 上都賀郡下南摩村(鹿沼市) 阿久津稲次郎 湿味色中札印花緘小手脞当等古風な甲冑 明治二十六年十一月寄進
8、 鞍鐙 一式 上都賀郡金崎村(鹿沼市) 川島慶次郎 代々所蔵した古い倭鞍 明治二十六年十一月寄進
9、 高徳軍中守護神摩恒利尊神の像 一基 高徳寺第十八世住職 児島宥昌 弘法大師作を模した高さ九寸像 明治二十六年十一月寄進
  9、は、高徳公自作の像ですが、何れも、戦後のどさくさで、神社南に在する白石うめ宅に保存されていると聞き、
 「児島高徳公 実在論」の著者宮家史朗が当時の沖山一郎大泉町長と共に、白石宅を訪問し、経緯と所在確認を乞うたが、叶えられ無かったとの事でした。
  (沖山一郎大泉町長の夫人は、私の中学の担任だった関係で、「実在論」の中で著していない部分も、双方から聞いた事が有りました)
  宝物が無い為に、参拝する者も無く、非常に寂しい状況です。
  (<上毛警友編集部編「上毛各地めぐり」>に、白石うめ宅に保存されていると明記されている)
【画像解説】   <尊龍院系図>と<三河三宅氏系図>及び、<宇喜多氏系図>は、宮家史朗著【児島高徳 実在論】巻末より、編集掲載。
【画像解説】   上の<三宅氏系図>と<先祖書>及び、<三宅系図>は、奈良の三宅氏所蔵で、高徳公三男三河三宅の子孫です。此のpageを御覧の皆様、
        一族の皆様の為、貴重な資料として、2020年11月12日&仝17日、御提供戴きました。三宅輪宝の記述も有り、大事な血族です。
         御陰様で、2021年11月24日の高徳公の六百三十九年忌に、良い報告が出来ました。
        ※  偽家系図屋の代名詞沢田源内は、我が一族で有る佐々木系を名乗り、戦の敵方だった武州忍城に縁の有る事から、
         偽の三宅系図を沢山作る事を生業と居たと思われ、明らかに、異なる苗字なのに、高徳公の末裔を名乗って、書物迄出して居る者も有り。
          韓国の様に、戸籍に本貫(出自)の記載が、有れば良いのだが、同和社会だから、無理なので、御一報下さい。

  児島神社創設以前に、関係者は真の墳墓と認識していた訳です。
  大泉町で、最も高い標高39.3mの山林内の社殿は、南向きで、間口二間二尺×奥行九尺の四方廊下を回らした建物です。
  家内安全の神様で、残念ながら井上加納宮司は通い。氏子の皆さんに守られて居る。

   ★ 『児島神社が、高徳公墳墓の西側に位置する訳』
    私の高祖父三宅佐太七等が神社創設に当り、神社は墳墓の祭壇から、発展したものと知っていた為、
   墳墓は東向きだが、故郷児島の方角の西側に神社を祭ったとされる。
    ですから、此の上州古海の児島高徳公史蹟を巡る時は、神社・墳墓・寺の順が正しいです。
☆★ 天莫空勾践 時非無范蠡★☆
    《中国の春秋時代に、呉と越と云う二つの国が隣り合わせで、いつも、争っていたが、
   遂に、越王・勾践(こうせん)の時に、呉王・夫差(ふさ)と会稽山で、戦って、呉王は背水の陣を敷いて、
   越王を破り、為に越王・勾践は、捕らえられ、土牢に入れられ、
   日の目も見れない有様で、幽閉の身と成ったので、越王は、自害迄決意した。
    越の国許で、留守を預って居る忠臣の范蠡(はんれい)が、之を聞き付け、捨てては置けないと、
   密かに、呉の国にに、忍び込もうとしたが、国境の警備厳しく、入る事が出来ないので、一計を案じ、
   魚屋の姿に身を変え、魚籠を担いで、まんまと越境し、土牢をさがしを探したが、
   救い出す事が出来無いので、魚の腹を捌いて、其の中に、一書を包み込み、牢の中に投げ込み、帰還した。
   「周の国の西伯と云う人も、晋の国の重耳と云う人も、一旦は、敵の虜と成ったが、何れも、後に、天下を取ったので、
   我が君も、自重して、敵に命を与えないで、待っていて下さい」との文を見た勾践は、其の筆跡から、察して、
   此れは、范蠡が忍んで来て、励まして呉れたのだと思い、苦痛を耐えて、生きながらえて居た処、
   其の後、范蠡は、二十万の大軍を率いて、呉の国に攻め入り、此れを打ち破って、勾践を助け出し、
   呉王・夫差を斬殺し、会稽山の屈辱を雪いだ》と云う昔話を例えに引用し、
   『天は、時、来れば、必ずや、己が范蠡と成って、御迎えに参りますから、待って居て下さい』との意を込め、
   脇差を抜き、桜の木に十字の詞を認め、策を講じる為、帰還したので有る
 【画像解説】   左から、三宅輪宝(輪宝紋) [輪宝は、想像上の武器で、此の輪を転がす者を転輪聖王と言い、
         此の輪を回しつつ、真理・法を宣布すると言う。
          仏教と共に伝来し、輪宝紋は、此れを図案化した物で、我が三宅輪宝は、常に戦勝を願った高徳公に相応の代表的な輪宝紋です]
          三保ヶ関部屋玄関上にも、天海の日光山慈眼大師堂にも、我が三宅輪宝が、掲げて有ります。
          そして、児文字(文字紋)   [児島五流(尊瀧院・大法院・建徳院・報徳院・伝報院)が新熊野三山として、
          天平二十年(748年)聖武天皇に依り、寄進された後、領地・信仰の意義から考案され、児島五流一族が使用]
         (高徳寺代々の住職は、児文字の紋を使っていたと永瀬弘雄住職が云っていました)
        ◎ 三宅輪宝と児文字、そして五流尊瀧院の詳細は、此方から御覧下さい。
          更に、児島高徳公<高祖父の八十二代後鳥羽天皇<従兄叔父の九十六代後醍醐天皇の肖像画です。
          後鳥羽天皇は、超マルチな才能の持ち主で、天才や文化の巨人と云われ、後醍醐天皇と同じに、隠岐島に流刑されるが、
         武蔵野大学漆原徹教授は、「歴代の皇族の中で、本当に多才」と評価し、
         各務原市歴史民俗資料館長谷健生学芸員は、「何もかも、自分で遣れる人はいないスーパーマンだった」と評価。
          琵琶の演奏達人。水練(水泳)の演奏達人。笠懸(弓馬術)の演奏達人。文武両道に優れた上皇だった。
          そして、寛正(1460年)~文正(1467年)の時代、九歳から、名主を勤めた三宅貞右衛門良芳
         文政(1818年)~天保(1844年)の時代、八丁村の名主を勤めた三宅定右衛門良次、二人の位牌。


高徳公の墳墓と遺物の保存及び、顕彰の「児島高徳公史跡保存会」名簿。 (括弧内は私との関連)

   保存会は、会長の細谷清吉背任行為に因り、此の後、数か月で、空中分解し、現在所在有りません
   1981年11月24日の六百年祭を前に、先ず、私の父が死亡。続いて、庭田尚三が死亡。
   此の四年後、三保ヶ関国秋が死亡し、母の予言通り、失敗でした。
役員名誉顧問 前総理大臣 福田赳夫 (上記参照)
  仝 群馬県知事 清水一郎 (子息の澄は(株)ロイヤルホテルプランニング社長)
  仝 元建設大臣 長谷川四郎
  仝 通産政務次官 中島源太郎
  仝 顕彰忠桜会長 庭田尚三 (上記参照)
  仝 相撲協会監事 三保ヶ関国秋 (上記参照)
役員 顧問 大泉町長 真下正一 (小泉十六氏)
  仝 大泉町議会議長 荻原重休 (大泉町中島源太郎後援会幹事長)
  仝 群馬県議会議員 久保田富一郎 (小泉十六氏)
  仝 邑楽町長 小島常男 (徳子が吉野から、携行した短刀を所蔵した小島喜四郎の縁者・上記参照)
  仝 千代田町長 大谷典三 役員顧問 太田市長 戸沢久夫 (中島源太郎軍団)
  仝 元大川村長 久保田千吉   仝 元小泉町長 引間栄一 (菩提寺檀家総代)
  仝 元大泉町長 金井正一   仝 前大泉町長 沖山 一郎 (夫人が中学の恩師)
役員 会長 細谷清吉  仝 副会長 川島利一郎  仝 副会長 稲村陸合一 (上記参照)
 仝 副会長 田野保喜代松  仝 総務 池浦留治 (同級生の父)  仝 総務 大塚次郎
 仝 総務 岡野鉄次郎 (上記参照)  仝 総務 尾城喜一  仝 総務 金子虎吉
 仝 総務 川島勇二  仝 総務 野口大作 (墳墓施工)  仝 総務 松島広之 (大泉町議)
 仝 総務 久保田猶三  仝 総務 久保田了二  仝 総務 栗原音吉
 仝 総務 柴崎重太郎  仝 総務 斉藤静三 (名誉町民)  仝 総務 関塚守一 (遠縁)
 仝 総務 永瀬弘雄 (上記参照)  仝 総務 田沼茂  仝 総務 根岸吉太郎 (大泉町議)
 仝 総務 福田郁司  仝 総務 宮家史朗 (上記参照)  仝 総務 茂木武治
 仝 総務 森栄章  仝 総務 山口ふゆ  仝 総務 若旅吉弥 (町商工会長)
 仝 庶務会計 飯田円朗 (同級生の父)  仝 庶務会計 岩瀬清平  仝 庶務会計 植木好冶 (館高同窓会長)
 仝 庶務会計 植松二一  仝 庶務会計 内田潤  仝 庶務会計 内田芳三
 仝 庶務会計 梅沢勝  仝 庶務会計 柿沼伊一 (大泉町議)  仝 庶務会計 小川豊彦
 仝 庶務会計 栗原正夫  仝 庶務会計 高野信二  仝 庶務会計 近藤善衛
 仝 庶務会計 斉藤好冶  仝 庶務会計 真下光司 (小泉十六氏)  仝 庶務会計 宮永好二
 仝 監査 久保田与一郎  仝 監査 根岸豊司  仝 監査 広田正一 (隣家)
   【芭蕉参拝の理由】芭蕉は、江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概(我が家の分家・三河三宅の縁者)の処に出入りし、
  延宝三年五月に、初めて号「桃青」を用いた後、芭蕉は延宝五年(1677年)に、此の高徳寺を訪れ、
  墳墓に参拝し、二基の石碑を残した。従って、碑には「桃青」と刻んで有る。
 児島高徳公終焉の地案内記を御覧下さい。
【会員 大泉町古海 青木光吉 青木茂夫 青木重雄 青木静雄 青木精一 青木寿男 青木延明
青木晴夫 青木福三郎 青木正治 青木利一 青木安一 新井熊蔵 新井四郎
今村武 入谷栄一郎 入谷勝三郎 入谷勝郎 入谷和夫 入谷甲子次 入谷元
入谷宗二 入谷尚 入谷拓司 入谷行夫 岩瀬博保 岩瀬正夫 岩瀬正行
上松次郎吉 内田勇 内田光 内田武男 内田昇 江黒浩 襟川幸一
襟川勇 大野弘 柿沼博 上村仁一 川島仙蔵 川島冶通 児島清
児島春雄 栗田昭一 栗田誠三 栗田寅蔵 高野三郎 高野平 高野多門
高野房吉 高野ヤス 小林才之進 小林仙吉 小林忠由 小林太郎作 (大泉町議)
小林鶴治 小林始 小林半造 小林二三冶 柴崎勝一 柴崎己一 柴崎重太郎
清水公雄 白石うめ 白石丑一 白石徳一 白石雅雄 田野保喜代松 中島孝一
根本政良 原島軍 早川武一 服部六三 町田作治 松沢卯三郎 松沢和春
松沢善冶郎 茂木栄司 茂木景一 茂木光吉 茂木武治 茂木晁治 茂木福二
茂木三男 茂木揚太郎 山口富
【会員 大泉町仙石 稲村倉二 稲村武治 岩瀬一郎 岩瀬求馬 岩瀬慶一 岩瀬清平 岩瀬田人
岩瀬長一 岩瀬利二 岩瀬紀男 岩瀬久雄 岩瀬勝 岩瀬祐三 碓井朝一
内田芳三 小野金一 金子三夫 (RotaryClub) 小林和忠 佐藤暁 島山彪
島山保治 須永周雄 多田卓 田部井健重 対比地彩邱 塚原央次 土屋穂積
町田秀雄 松森源作 吉田仲光
【会員 大泉町吉田 内山和三 大隅勇 沖山一郎 小此木誠一 小渕忠三郎 柿沼孝一郎 柿沼良平
川島勇二 川島幸作 川島次郎 (中学の恩師) 川島秀夫 川島浩重 川島正夫
川島主馬三郎 木村正三 倉上赫二 坂本精 渋沢文雄 清水啓 下條子次郎
関矢俊光 田沼茂 永沼陽一 (RotaryClub) 福島昌右 松沢辨冶 持田喜作
森田芳次郎 山口武雄 (RotaryClub) 山口ふゆ 山口政八 渡部 作
【会員 大泉町寄木戸 尾崎銀平 加藤季孝 坂本一義 坂本五郎冶 坂本重次郎 坂本丈吉 坂本長太郎
田辺信雄 (宝寿院住職) 中村照夫 中本旭 中本茂 根岸九一 根岸国夫
根岸豊司 萩本好弘 服部菊次 (大泉町議) 平田宝作 (大泉町議) 峯崎真三
峯崎純吉 三吉佐吉
【会員 大泉町坂田 荒田美喜夫 岩瀬たま 植松新七 川島良孝 川島利一郎 小林永市 坂本良平
坂本正俊 高山文男 平田清久 (群馬県議) 平田久義 宮永林八 宮永菊雄
宮永好二 森栄章 森朗雄
【会員 大泉町古氷 久保田千吉 対比地秋次郎 対比地三寿 真下治二 石田正
【会員 大泉町上小泉 青谷輝夫 新井俊邦 新井雅男 飯田円朗 飯塚竹吉 石島正三 市川徳太郎
井上加納 (児島神社神官) 岩瀬光一 植木好治 卯月友二 大神菊男 大浜義彦
大塚次郎 (社日神社神官) 柿沼伊一 金井正一 金子実 河内梧作 (大泉町議)
久保田三郎 (大泉中島会長) 久保田富一郎 久保田宗男 久保田ムメ 久保田了二 高野和
小宮三平 小宮文寿 子安藤四郎 佐藤房太郎 斉藤一二 斉藤静三 斉藤吉三
沢田実 正田昌丈 霜田辰雄 鈴木源三郎 鈴木邑吉 関口文三 関矢美江
須永弥平 高橋徳次郎 高橋詔徳 武安正嘉 対比地四郎 田村皓 槻岡行支
野村梅吉 野村浩之 蜂谷徹夫 (大泉中島会長) 引間栄一 深谷幸夫 堀江政夫
藤波信二 (成就院住職) 福田幸次郎 (遠縁) 本田健一 前田喜代治
前田拓三 真下光司 真下忠一郎 真下直吉 真下泰司 増田雅一郎 松島広之
三浦庸男 見竹正輝 宮崎棟次 宮沢吾一 宮下豊男 宮脇清作 茂木長太郎
谷釜実 山崎敏雄 山中喜一 山中良一 吉川安男 横堀章
【会員 大泉町下小泉 阿部宏作 青木輝夫 新井悦太郎 新井菊次 井上庫三 飯塚喜久男 飯塚周吉
飯野忠一 池浦留吉 井野喜夫 (中島会幹事長) 市原弘 石井きの 今泉三郎
岩瀬政男 岩瀬長治 植松二一 内田勝 梅沢勝 江泉本正 尾城喜一
尾城順一 小川豊彦 小貫正道 大久保静子 大沢満雄 大塚圭介 荻野幸次
荻原重休 荻原卯一 恩田栄三 加藤弘治 金井道夫 金子虎吉 金田栄治
河内隆 久保田一次 久保田賀三 久保田賢次郎 久保田昿 久保田稔夫 久保田楢三
久保田康暉 久保田浜吉 (大泉町議) 久保田与一郎 窪田幸蔵 栗原音吉 栗原定吉
栗原忠夫 栗原正夫 高野信二 高野仁作 高野林枝 小島森次 小堀一男
小堀正男 小林喬 小林裕茂 近藤綾子 近藤善衛 近藤太吉 斉藤四郎治
斉藤品吉 斉藤好治 斉藤富男 斉藤嘉賢 坂岩平八 佐々木光司 佐々木順八
里見力造 柴崎郁雄 (RotaryClub) 柴崎伊男 島山矢市 清水忠三郎 篠原太良治
須賀田利三郎 鈴木雷蔵 関口章市 関塚弘毅 関塚守一 関根紀雄 千本木和平
高尾芳雄 (大泉町議) 高橋清 高山直治 田代邦夫 田村憲司 田村健次郎
多田耕治 館野義司 秩父啓市 中尾康次 中里光雄 長井金之輔 長井吉之輔
永島保二 永瀬弘雄 (高徳寺住職) 根岸吉太郎 (大泉町議) 野中孝夫 波部義人
林敦夫 原尚伸 春田恒三郎 広田正一 福島平 古沢昭一郎 細谷清吉
細谷長流 真下正一 真下静枝 三宅英四 (私の父) 宮本昭行 村田謙弥
村田林次 茂木政一郎 谷中修二 山口善吉 山野武男 山野弘之 湯本正一
若旅吉弥 (大泉中島会長) 若旅貫三郎 渡部一男 渡部義勝 渡辺隆司 渡辺保平
【会員 邑楽郡邑楽町 小島常男 広井叉一 細谷邦雄 細谷雄太郎 増尾利雄 又野繁 渡辺全朗
【会員 邑楽郡千代田町 大家敏夫 西森気晴 山口賢 大谷典三
【会員 館林市 阿久津昭二 後藤昭 田中謙吉 福田郁司 森田恵美子
【会員 太田市 秋庭薫 荒木国太郎 荒木宗司 荒木孝昌 荒木交五郎 荒木豊 石井幸雄
糸井正雄 稲村一三 稲村陸合一 稲村伝 岩崎隆一 内田潤 遠藤兼吉
遠藤七郎 遠藤寿仁 尾内一雄 大久保克美 大沢新平 大塚八郎(神官) (冠稲荷神社)
大野健一 岡田章 岡部満明 岡野鉄次郎 落合正男 金谷英 金谷しげる
金谷寅之助 金谷浩孝 北村常太郎 久保田二三夫 栗原紀之 小暮誠 桜井光次郎
須永章 須永実三郎 鈴木万次郎 田村宗吉 塚本輝男 戸川愛三 (戸川建築)
戸沢久夫 中島実 長浜法利 成塚治夫 馬場有臣 橋本豊治 橋本林作
蓮沼要三 平賀勇 平賀喜一 平賀春一 平山茂 深田福司 藤生邦太郎
藤生勉 曲寿之 宮家史朗 室田直忠 茂木武治 籾山芳郎 森尻沢四郎
安田竹次郎 山口嵯伝二 山口仲二 山口晴男
【会員 伊勢崎市 阿久津弘 今井旦 桜井三郎 田辺稔 高草木敏蔵 橋本弘司 平田雅之助
福島次男 福永敬 本多満 松井敏男 松波英司 宮田弘臣
【会員 前橋市 阿久沢浩 入内島一崇 渡辺忠夫
【会員 栃木県足利市 浅沼邦夫 稲村喜治 樺山守 小林正枝 成田次郎
【会員 埼玉県熊谷市 坂田源太郎 鯨井登 野口大作
【会員 埼玉県深谷市 荒井邦佳 山口律雄
【会員 埼玉県さいたま市 伊藤欣吾
【会員 茨城県 高坂義一 (香坂高宗)
【会員 東京都 北の湖敏満 沢田国秋 冨岡八十雄 中島源太郎 中村美夫 長谷川四郎 福田赳夫
増位山太志郎
【会員 千葉県 稲村次夫
【会員 神奈川県 新井鎮久
【会員 京都府 加納五郎
【会員 岡山県 庭田尚三

   ◎ 大泉町の住所は、真下行政(1990)の負の遺産で表示変更され、上小泉・下小泉の古い字名が消滅し、
    新表示が入組んで居る為、分けられず其の儘記載しました。
 【画像解説】   旧国立長崎銀行弐円札<我が大先祖児島高徳公と新田義貞公が描かれている。裏面は宮城。
          坂東太郎の対岸血洗島生誕の渋沢栄一は、高徳公・義貞公が好きで、我が家と武蔵島の宮下を行き来し、此の紙幣を発行してくれた。
          何故、弐円札なのか?其れは、幕末期の田原藩三河三宅の石高が、弐萬石だったからで有る。
          (家康は、鎌倉攻めの折、義貞軍が、休憩した三ヶ尻と高徳公の古海の伍仟石を田原藩に与え、我が家が、管理して居ました)
          私の二十六代上の祖佐々木盛綱公の伯母の嫁ぎ先平泉の藤原三代秀衡の従妹で有る、
         岩城則道夫人・徳姫(藤原清衡の娘)に依って、建立されたいわき市の「白水阿弥陀堂」、 そして、「白水」という地名は、
         平泉の「泉」という文字を2つに分けた物で、いわき市の「平」という地名の由来は、平泉の「平」を取った物だと云われ、
         <スパリゾートハワイアンズ>の住所は、いわき市常磐藤原町と云う因縁・奇縁から、
         そして、分家三河挙母藩初代藩主三宅康貞の娘は、陸奥磐城平藩初代藩主内藤政長(三河で生まれ、
         豊臣・徳川に仕える)の正室だった事が、判明し、合縁奇縁を感じ、いわき市を中心とする被災地復興支援に着手する。

   ▲ 1981年11月24日、上記保存会の皆様の御尽力と御厚情に依り、『児島高徳公六百年祭」は、盛大に催されました。
     其の後、三十九年を経過した今日、高徳公の二十四世裔として、保存会の皆様に感謝の意で、此処に公開する物です。
     (中島飛行機が縁で、我が家に婿入りした父英四が、遠祖高徳公のこの事で、東奔西走した後、
    六百年祭に出席する事無く、死去した事は残念です)
   ★ 町制四十五周年の記念行事の1つとして作成された<大泉かるた>で、我が大先祖児島備後三郎藤原三宅高徳が描かれています。

今年は、私の大先祖児島高徳公古海高徳寺を開山して642年
そして、私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が、此処に在を求めて466年に成ります
 【画像解説】   左上から、旧国道354の大泉町西側入り口付近に、佇む小泉城址高徳の墓案内標識。
          馬鹿げている高徳の墓では、誰も判らないだろう?大泉町は、此れだから、文化水準が低いと言われる。
          そして、整備される前の墳墓で、歴代住職の墓石は下に有った
          2016/07/16 韓国の国民銀行に口座を開いた記念に、戴いた李朝白磁の湯呑が、100円ショップの湯呑に替って居た
          左下から、整備される前参拝毎に、草むしり等、掃除が大変だった母と父。そして、此の時分の古い本堂と山門。
          更に、<大泉町の生い立ち>アンダーラインが、高徳公の記述。1977年発行大泉町勢要覧より。(画像クリックで拡大)
          更更に、吉備国史所蔵の<宇喜多氏系図>。秀家は、家康と共に、五大老だった。
          更更更に、高徳公の生誕地である倉敷<五流尊瀧院>の詳細。
 【画像解説】   後鳥羽天皇第四子の頼仁親王開基で、我が祖高徳公生誕地の五流尊瀧院と三河三宅江戸屋敷付近地図。
         (皇居桜田門から、半蔵門に至る坂を三宅坂と言う。
         三河田原藩三宅備後守の上屋敷が有った処からの由来で、画家の渡辺崋山は、此処で誕生する。
         現在、此の地は、最高裁判所に成って居る
         三宅島は、江戸時代の地図では「見付島」と有り、我が一族とは関連は無い。八丈島は、高徳公長男の高秀の子孫宇喜多秀家流刑の島。
         そして、『三宅一族』出版案内葉書。
         (此の葉書に依ると日本家系協会が、出版の際、1989年[平成元年]全国の電話帳を調査した処、三宅姓が、25,503世帯有ったとの事です)
         2021年5月1日、都内で会い、私が、順徳天皇の弟・頼仁親王の子孫で有る事を知った山田詩乃武に戴いた署名入り著書「順徳天皇」。

          2012年7月8日(日)、大泉町文化むら大ホールに於いて、 被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、
         第二弾から、第八弾迄、「除染作業」等の支援をしたが、酷い目に遭い、悪徳業者と戦い
        <被災地の悪徳業者1>  <被災地の悪徳業者2>ブラックリストの個人・企業が多い為、撤退します。


  ☆★ 【参考資料】 <古事記> <玉野の伝説> <宮家史朗 著「児島高徳実在論」> <三宅福次郎 著「三宅家系統譜」>
      <大泉町誌歴史 編(小生が一部編纂協力)> <大泉町誌文化・自然編>   <上毛警友編集部編「上毛各地めぐり」>
      <歴史百科「日本地名事典」>    <本田総一郎 監修「新集 家紋大全」>   <「児島高徳公史跡保存会名簿」>
      <関裕二 著「海峡を往還する神々」>  <中西尉一 著「南朝の忠臣児島高徳」>  <平凡社「朝鮮を知る事典」>
      <大韓民国行政自治部自治制度課 監修「大韓民国地名便覧」> <鈴木武樹(明治大学教授) 著「地名・苗字の起源」>
      <民衆書林「韓日辞典」> <民衆書林「日韓辞典」>     <浅田晃彦 著「児島高徳と新田一族」>
      <徳永眞一郎 著「近江源氏の系譜」>  <山田志乃武 著「順徳天皇」>   <倉田白峯 著「日本全国神社物語」>
      <庭田尚三 著「児島高徳と『天、勾践』のはなし」>      <庭田尚三 著 私本「長慶天皇と児島高徳太平記」>
      <児島高徳公顕彰忠桜会 庭田尚三 著「日本歴史皇統系譜並に歴代主要事績一覧表」> <「大和の国三宅氏系図」>
      <神明館蔵版「平成十二年運命宝鑑」>  <神明館蔵版「平成十三年運命宝鑑」>       等等。

    ◎ 新羅の皆様を含め、沢山の方々が御覧に成って居る事、感謝申し上げます。
    ◎ 한국신라 사람들도 많은 분들이 보심에 되어 있는 일 감사 말씀드립니다.

     23.11.3 高徳公の生誕地である倉敷・五流尊瀧院の宮家準管長に、此のPage等、関連Pageの写しを送付したが、連絡無

大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★

誰もが望む、健康と長寿の万能薬・食べる化粧品<乾燥厚岸草・鹹草/함초>顆粒
万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

日韓親善NGO活動四拾貳年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会 (동아 우의자업 연구회)
総務大臣届出四拾八年政治団体  三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
会長 三宅英雄 (号 昔城・元読売新聞記者) [児島高徳公陰陽直系二十四世裔]

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央二丁目10-19    電話&Fax 0276-61-0560
公開2008年04月11日 戊亥  更新2024年03月28日 壬寅  <敬称略>

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