太平記之郷・児島高徳公終焉の地案内記

児島高徳公と俳人芭蕉。

児島高徳公直系同族会設立三十五周年記念』

★六世裔【三宅太郎左衛門藤原芳高】が、公の墳墓守護と供養の為、此処に在住四百五十年記念★
どうぞ、縁故の有る方は、この案内を参考に一度訪れて下さい。
時間が有れば、私が案内して差し上げます。

左の画像は、我が大先祖・児島高徳公が天授6年3月建立し、
晩年を過ごした後、明和4年(1767)11月消失、再建の高徳寺です。
(所在地・群馬県邑楽郡大泉町古海2211先)
私が子供の頃、本堂東に、庫裡が有り、婆さんが、一人留守番をして居ました。

このpageは、私の先祖の児島高徳六世裔【三宅太郎左衛門藤原芳高】が、
高徳公の墳墓を守る為、此処に来た経緯等を知って戴く、
「二千年前韓国から来た私達のルーツ」と共に、御覧下さい。
(「児島高徳公史跡保存会」名簿は、上記リンクで御覧下さい)
東武鉄道・小泉線の西小泉駅から、児島神社・児島高徳公墳墓・高徳寺を参拝後、
西小泉駅に戻るコースを御案内致します。


医王山延命院 高徳寺」は、後醍醐天皇の子宗良親王移住の地「医王山福徳寺」に、
高徳公も度々訪れ、其の縁で寺の山名を「医王山」としたので有る。
(「●●山●●寺」とは、韓国では、寺は山に有る物の考えから来ています。)

       【医王山延命院 高徳寺 歴代住職】  開基 義晴法師入道志純(児島備後三郎藤原三宅高徳)
       高徳寺と称したのは、住職二世良順からで、高徳公没する迄は、禅庵の様相で、殆ど、南朝の為、東奔西走していた。
 二世 良順  三世 良朝  四世 良海  五世 善俊  六世 善朝  七世 朝宥  八世 良栄
 九世 宥伝  十世 伝勝 十一世 宥海 十二世 宥広 十三世 宥寛 十四世 宥仁 十五世 宥範
十六世 宥全 十七世 宥進 十八世 宥昌 (明治五年頃) 十九世 英辯 以後通い住職

  * 高野山真言宗古義派のお寺で、御本尊様は大日如来尊
    天授二年(1380)高徳公存命中に伽藍を建立、二世良順が此れ迄庵だった物を高徳寺と命名。
    其の後、明和四年(1767)火災に遭い、什器文書等悉く消失、翌年十三世宥寛が再建した本堂がトップ画像です。

   1、西小泉駅前からさあ~徒歩で出発です。
     東京三洋電機全盛の頃(昭和30年代後半)沢山の乗降客が有りましたが、
    今はさっぱりです。現在は、建替えられ、新しく成って居ます。

   2、旧国道354号線を歩道橋で渡ります。
     画像左側に交番が有りますので、何かの場合に覚えて置いて下さい。
     ● 慶応四年(1868・明治元年)の府藩三治制に、上野国十三郡と武蔵の国六郡とで「岩鼻県」が発足し、
    現在の大泉町は、「岩鼻県」に所管されたが、児島高徳の墳墓が有る古海は、三河三宅の関係から、
    飛び地的な「西端県」(現在の愛知県)の所管に成った。
     当時、我が家の当主は私の高祖父の佐太七で、下小泉村の名主⇒副戸長の要職に有り、
    田原藩最後の藩主の三宅康保と「児島高徳朝臣墳墓考」を著した世良田八坂神社の阿久津盛為等で、
    大先祖児島高徳の護持しました。



  3、昔は、西小泉駅から、貨物の駅「新小泉駅」が有り、
  今は、東武鉄道から、提供を受け、「いずみ緑道」と言う散歩路を整備して有ります。
   其の「いずみ緑道」を少し歩きます。
   歩道橋上から見た、国道館林方面です。道幅は中島飛行機時代の侭です。

  4、さぁ~歩道橋を降りて、緑道を歩きましょう。
    右側に噴水が有り、夏場は、愛妻と涼を求めに来ます。

  5、西小泉駅でトイレを済ませなかった場合は、此方でどうぞ、
   緑道最初のトイレです。

  6、此方も噴水です。
    大泉町役場の広報国際課に依ると冬場は水を流さないそうです。



  7、パナソニック(旧三洋電機)北門です。
    北門はもう一つ右側にも有り、此方は朝晩の勤退時に使用しています。
    此処が昔は、中島飛行機で、ゼロ戦等の戦闘機を製作していました。
    私の父母は此処で巡り合い結ばれた訳です。

    ★ 他に、此の東毛地区に、南朝の忠臣新田義貞脇屋義助楠木正成の遺跡が有りますが、
     児島備後三郎藤原三宅高徳の墳墓が有るのは此処だけ。
     上記三名は何れも首塚なので、貴重な観光資源です。
     <宿場・門前町等で栄えた古海>
     此処大泉でも、古海は最も古くから開拓された所で、河畔砂丘の切り通し、利根川を控えて、交通の便良く、
    鉄道の開通以前は、水運を利用して、帆船が行き来し、土手も低く、古海の家々からも、其の舟の帆が見えたと言う。
     船着場も有って、宿場として栄え、天満屋・盛木屋・朝日屋等の旅籠が有り、又、女郎屋も有り、
    高徳公の史蹟に詣でる人々も、江戸時代から明治初期頃迄、非常に、多かったと古老は言う。
              河内梧作著「大泉の史蹟を訪ねて」より一部抜粋。

  8、パナソニック東側に有る「緑と彫刻の道」の看板。
    緑道は、パナソニック東側を通っています。

  9、左側の彫刻を見たら、一休みして下さい。

  10、少し、悩ましくて意味深な彫刻の前で、
    散歩中のどこかの奥さんに画像を撮って戴きました。

  11、ダイヤに丸に三角、此れも芸術なのでしょうか?

  12、「おもい」です。ロダンの考える人の女性版なのでしょうか?

   <古海の桜>  関矢美江
   昭和の初め、古海の利根川の堤には、百本位の桜並木が有りました。
   花見客相手の出店が30軒程出て、堤防が人波で賑わい、
  桜の枝が川面に垂れ下がり、大きな船・小さな船での船上の花見、
  三味の音色等、其れは、美しい物でした。其れが、敗戦に成り、米軍の進駐で、
  桜並木の堤防が性犯罪の場所に成っては成らないと全部伐採してしまったのです。
              茂木栄三郎著「関東のド真ん中」より一部抜粋。

    河内梧作・関矢美江の御二人は「児島高徳公史跡保存会」会員です。

  13、パナソニック東門です。此処は、車の出入りは出来ません。


    ★ 昭和32年(1957)3月31日、
    高徳寺の有る大川村と小泉町が合併し大泉町と成りました。




















  14、道路向こう側が、大泉町役場です。
    韓国の都市と「日韓行政姉妹提携」を提唱しているのですが、
   未だ、実現しません。
    此処には、昔、拓殖短大群馬分校が有りました。


  15、此処から、いずみ緑道は、画像右手に通り、私達はカーディーラー左手の道を真直ぐ歩きます。

  16、歩道橋右手が、大泉町立南小学校です。
     此処で、片道行程の半分位でしょうか?

  17、仝小学校傍の信号機です。
     此の交差点を渡って下さい。
     佐貫十二代広綱の叔父成光が、古海に住み、古海太郎と称し、古海の地名に成った。
              河内梧作著「大泉の史蹟を訪ねて」より一部抜粋。

  ◎◎ <資料著者解説> 宮家史朗は、大事な親戚。
     河内梧作(昭和40年代町議)と茂木栄三郎(仝30年代町議)は、亡父の仲の良い友人で、御二人は、良く父の元へ来ていました。
     河内梧作は、小泉十六氏(名家の集まり)の幹事役で、私も会員だったので、良く会い、杯を交わしました。
                         御三方何れも既に故人。

  18、交差点を渡った処の駐車場です。
     此の駐車場の左側からも行けるのですが、
    今日は、真直ぐ歩道を歩きましょう。

  19、次の交差点向こう側にセブンイレブンが有ります。
     此処からが大利根工業団地で、交差点を左に曲がります。

  20、曲がって直ぐ、パチンコ店「フレンド」が有りますので、覚えて置いて下さい。

  21、次に、工業団地の中に有る休泊川の橋を渡り、右側に渡り川の東側を歩きます。

  《ちょっと寄り道》 (画像は、既に解散してない【東毛地区雇用安定促進協議会】)

    21、を右に曲がらずに真直ぐ、30m程行くと、
   右に入る道が有るので入ると、左側に「大利根金属工業協同組合」が有ります。
    此処の有志が、【東毛地区雇用安定促進協議会】を当時の真下町長の支援で組織し、
    日系ブラジル人が多数流入の切っ掛けと成ったのです。
    中島代議士と私達は、「一方の蛇口だけ開けるのは駄目だ」と反対したのですが、
   中国人がブラジル国籍を偽造して、入国等の問題も発生し、現在、
   雇用先が無い・ブラジルへの帰国支援金30万円の支給等弊害が多数出ています。

    * 『児島高徳公は、何故此処上州古海に高徳寺を開山したのか?』
                          宮家史朗著「児島高徳実在論」より一部抜粋。
      当時から、渡船場が有り、後方(北)の宗良親王・新田一族を守り、前方(南)の鎌倉勢・足利氏満の攻撃を防ぐには、最良の要衝地だった。
     更に、隣接の赤岩(邑楽郡千代田町)は、此の地方の豪族佐貫氏(佐貫荘)が栄え、
    下野大據(だいじょう)長門守藤原村雄と其の子田原藤太秀郷の生誕地でも有り、藤原姓一族が住んで居る為、
    比較的安全で、修禅の間に、軍機を計り、北朝方の情報等を集める為に、東奔西走して居たのです。


  22、川の畔も整備されていますので、水飲み場も有ります。
     然しトイレは有りませんので、御注意下さい。

  23、休泊川の河口前です。左に入る道の二本目を行きます。
     直ぐ前が、坂東太郎の流れです。

  24、左に自動車修理工場を見て、二股の道に成ります。
     右に行くと利根川の土手に登りますが、左に行きます。

  25、二股の道を左に行くと、児島神社の入り口が有りますので、
     真ん中を歩かず、端を歩き、社殿に詣でて下さい。






  26、 私が小学校6年生の時、父は失業して居て、母と夫婦喧嘩が絶えず、
     母は、「利根川に行って死ぬから」と居なくなったので、自転車に乗り探しに行った処、
     一人っ子の母は、養姉が二人いたものの、行く当てが無く、母の曽祖父三宅佐太七等が、
     創建した此処の社殿階段に腰掛けて居るのを発見し、家に連れ帰った思い出が有ります。

     明治二十一年(1888)十一月竣工の児島神社社殿。私が唱えている
YouTube動画の身禊祓詞で、悪霊を除き、御利益を受けて下さい。
     そして、児島神社手前右側に、木曽御嶽記念碑大正元年(1912)十二月一日荒川・松平が建立。
     其の右側が、明治二十六年(1893)三月に、吉田川長平・角力取締・五色川一太夫が建てた野見宿禰命供養塔
       (垂仁天皇に仕えて居て、我が始祖天日槍命が、八千人の供を連れて、此の国に来た時、垂仁天皇に命じられて、
     命と話をしたのが、野見宿禰で有る関係から、此処に祭られている)
     更に、其の右側の小さな碑が、大正拾年拾月に、古沢作次郎が建てた猿田彦大神塔。右の家型石碑は不明。
     ■住所は、群馬県邑楽郡大泉町古海松塚775番地。
     そして、児島神社手前左側の児島神社説明図と其の拡大上部と下部です。
     裏面には、第四高等学校(現 金沢大学)教授で、文学士の栗原武一郎が、書した児島神社由来が刻して有ります。
     高徳公の熱心なファンである阿久津盛為が、提供の壱百四拾六坪等、全壱千弐百八拾九坪の敷地です。大正九年(1893)五月建立。
     更に、萩原進監修の「上毛各地めぐり」にも、掲載されて居ます。
  ■児島神社創建認可遅延の訳
 私が、「小父さん」と呼称して居た地域紙<第一新聞>の社主宮家史朗の著書<児島高徳実在論>に由ると、
神社創建当時の大川村宮永喜十郎村長名の調査報告書では、
高徳寺第十八代住職児島宥昌は、山師的僧侶で、
宥昌は、第十七代住職児島宥全が、武州幡羅郡蓮沼村総持寺住職として、
在住の頃、其の総持寺に、居候して居た宥昌は、「僧侶に苗字を附し、戸籍を儲けよ」との公布有り、
宥昌は、宗祖の苗字佐伯とするか?生家の今村とするか?開山の御姓児島とするか?
決し難く、役所用人の前で、三つの姓を書き記した三本の籤の中から、児島を引き、児島姓を名乗った。
 隣村の石塚村の坂田八十八の長女を内縁の妻とし、長男の児島三郎治を儲け、
明治四年本人死亡後の明治五年の戸籍制定時、其の母子を高徳寺西の長良神社神官に、擬し、
大川村字番場に、三郎治を戸主とする戸籍を創設した為、認可が遅延したと云う。
▲ {私感}所謂、創建に関わった第十七代住職児島宥全が、新平民と判断した為、
 相応しく無いと遅延したと思います。
 歴代住職の墓は、私の大先祖児島高徳公墳墓の下に有ったのだが、
 小父さんも、意見を述べただろうが、合祀されて、
 我が大先祖の墳墓では無く、高徳寺歴代の墓に成ってしまった
  眼の見えない細谷清吉に問題有り。

     さあ~次は、児島高徳公の墳墓に行きましょう。
     此処は、大泉町で一番高い処なので、正面の利根川の土手よりも高いでしょうか?道路に出たら、左に行きます。


  27、暫く行くと、突き当たりに成ります。
     左側に墓地が有りますが此処では有りません。此処を右に折れます。

  28、次に左に入る道が有りますので、左に折れて下さい。
     真直ぐは土手です。

  29、次に突き当たりに成り、左に折れ、
     直ぐ右に曲がります。

  30、カーブミラーの突き当たりを左に折れます。












【画像解説】
     下の画像は、旧国立長崎銀行弐円札<我が遠祖児島高徳公と新田義貞公が描かれている>。
     そして、81年11月24日、『児島高徳公六百年祭」にて、墓前で、北の湖<横綱の土俵入り>。


  ◆◆ 此処を右に折れると坂東太郎の大河です。
  (画像は、妹達と墳墓を訪ねた後、旧古海の渡し付近にて、1961年11月撮影)



  31、左にカーブミラーの有るごみステーションを右に折れます。
     此処は狭いので、車の場合は注意して下さい。

  32、狭い道を曲がると、正面に墓地が見え、木の下が、
    我が大先祖、児島高徳公の墳墓です。

     ★ 敗戦前、天皇裕仁は、米国と取引をして、無条件降伏をする代わりに、皇族の存続を約束させました。
       其の為、慌てて、銃器等の菊の御紋を削らせたのでした。
       豪農で、農地が沢山有った我が家は、小作人に田畑をマッカーサーの方針で取られ、
      代々、青空監獄で、物造りや汚れる仕事をして居た人が、政治や公務を行って居る為、益々、日本は敗退します。
     ★ 墳墓入り口の観音堂の観音様と高徳公院庄の図画像
     ★ 児島高徳公木像
         桜の木に十字の詞を書いた姿、其の風貌は、正に二十歳前後の若武者で有る。(作楽神社所蔵)
         私の家に、幾度も来訪の暁山 庭田尚三 元海軍技術中将と陶守省三郎(明和産業社長・岡山の自宅訪問等遠縁)は、六百年祭最大の功労者。
     ★ 上毛新聞に掲載された、義貞と高徳が描かれた明治13年発行の<二円>札の記事

  33、参拝後は、墳墓から真直ぐ、東に出て、
    赤い涎掛けの地蔵様の右方に有る賽銭箱に効果の有る硬貨を御願い致します。
     さあ~次は、高徳寺に詣でましょう。

  34、墓地を出て、左に歩くと、
    ブロック塀の白石酒店が右に有り、通りに出ます。

  35、通りに出たら、左に折れます。
     この道路は、県道315号で、交通量が少ない分、
    スピードを出す車が多いので、御注意下さい。
     右側に高徳寺の入り口が見えて来ます。
     路肩にスペースが有りますが、駐車しないで、高徳寺横の公民館に駐車して下さい。

  36、高徳寺の入り口には、「児島備後守高徳公終焉の地
     「医王山延命院 高徳寺」の碑が建っています。




  37、「枝垂桜」(09.03.30撮影)
     「高徳寺」は、<明治初期<潤身学校>として、勉学を教えた寺です。
     高徳公手植えの老桜は、
    昭和12年頃、枯れてしまったと<上毛各地巡り・昭和28年刊>に有り。










<古海古墳群>
     1、 亀の子山古墳=亀の子の形をした前方後円墳で、
       1908年刀・斧・鏃(やじり)が出土。現在は残形残るのみ。
     2、 御伊勢山古墳=皇太神宮を祀った前方後円墳で、
       1895年刀・金具・弘安時代の板碑が出土。現在は水田。
     3、 松塚古墳=明治の初めに、刀・鏃(やじり)・中国の鈴が出土。現在は原形無し。
     4、 天神坂古墳=天神様を祀り、高台に有る古墳。
     5、 荘太郎塚=古海古墳群の一つだが詳細不明。 河内梧作著「大泉の史蹟を訪ねて」より一部抜粋。

            * 現在、この古墳群が残っていたら、韓国慶州の様に、
             此処が文化遺産の博物館だっただろうにと思います。
              中学生の時、学者等と吉田遺跡等の古墳を発掘した思い出が有ります。



  38、「高徳寺「芭蕉の句碑」
     鐘楼を背に、西側を向くと、三角形の碑二つに、一つは、
                   <花の影 謡に似たる旅桜かな   桃青>
       (大泉町の句碑は、貴重な此の二つだけ)
     ■住所は、群馬県邑楽郡大泉町群馬県邑楽郡大泉町古海531-1番地。

       39、もう一つの碑に、<眼にかかる 時や殊更 五月富士  桃青>
                  <川上と この川下や 月の友    桃青>
      * 桃青は、芭蕉初期の俳号で、
      「太平記」の作者の1人で有った遠祖児島高徳の終焉の地を訪れ、
       詠んだ物と思われます。
        初めの句は、勿論高徳公手植えの枝垂桜を詠った物と思われます。
        後の二つの句は、江戸から高徳寺に来るのに、中仙道熊谷から、
       善ヶ島村ー古海村の渡しで、坂東太郎を渡り、
       堤と旅籠での様子を詠んだ物と思われます。
        (江戸から大正・昭和の初めまで、此処上州古海の利根川辺は、
       非常に桜の名所で有ったとの事です。(08.11.24高徳公命日撮影)
      * 芭蕉は、伊賀の出身なので、
      忍びの前身と言われる山伏の遠祖高徳公に興味が有ったと思われます。
      * 古海の渡しは、既に無いので下流の「赤岩渡船」を御覧下さい。

      「医王山延命院 高徳寺」の御本尊様です。
      現在は、赤岩の光恩寺の住職が通いの住職です。
   * 此処で、高徳公は、妙義神社の近くで儲けた娘の徳子(尾島宮下八郎の祖)と暮らし、
    次男高久(増位山三保ヶ関親方と私の祖)が頻繁に訪ねたと言う。
     高徳公六世の私の先祖三宅太郎左衛門尉藤原芳高が元亀元年(1570)亡く成った後、
    仝九世の三河三宅氏中興の祖三宅惣右衛門康貞は、天正十八年(1591)戦功に依り、
    徳川家康から、鎌倉征伐縁の地武蔵国見賀尻(現在の熊谷市三ヶ尻)五千石を与えられる。
     康貞は、高徳公の墳墓に四里程と近い坂東太郎の対岸見賀尻を選び、
    徳川家康が江戸幕府を開いた翌年の慶長九年(1604)迄、供養した後、
    挙母藩一万石を与えられ三河国に帰ったのです。
   そして、此処古海も、家康に縁が有る為、天領で、三河三宅が遠方の為我が家が管理して居ました。


  40、「医王山延命院 高徳寺」を詣でたら帰りましょう。
     出て、右に行きます。
     歩道を歩いて行くと、右カーブに成ります。






私の分家が、児島神社の場所が判らない為、大泉商工会を訪ね、観光協会に尋ねた処、「判らない」との事で、留守録にメッセージが有り、 直ぐ連絡し、案内した事が有ったが、観光資源なのに、非常に残念です。


  41、右カーブから、工業団地の中の信号機のこの交差点を渡り、
    左に行くとパチンコ「フレンド」の前に出ますから、
    西小泉駅迄戻り、御帰り下さい。私は、真直ぐ自宅に帰ります。では、お元気で、左様なら。

   ★ 児島高徳公略系図。
     高徳公次男高久は、姫路澤田家の荘次左衛門に養われ、
    其の五世裔三宅太郎左衛門藤原芳高が、私の先祖に成ります。


上は、文部省制定尋常小学唱歌 第六学年第二【児島高徳】(岡野貞一 曲)。


★ 小泉城(冨岡家六代の居城)本丸東側付近。(09.03.30撮影)
     冨岡家と菩提寺龍泉院、そして三宅氏の私
       【高徳寺の寺宝】
  1、 弘法大師作<摩担利尊像>九寸四分。
  2、 高徳公自作<高徳坐像>。
  3、 楠木正成公愛用<鉢割の朱鞘太刀>一振、一尺七寸。
   * 私の高祖父佐太七の時代には有ったのだが、何れも残っていない。
     児島神社の社宝を持ち去っている白石家と同じ様に誰かが持ち去って居るのでしょうか。?
     楠木正成と高徳の父和田備後守藤原三宅範長は年代も同じで、
    仲良く、範長の死を悼み贈った物なので、摩担利尊像と共に、高徳寺に返還して貰いたい。


* 上の画像は、墳墓整備前の供養塔と福田赳夫総理揮毫墓碑。

      * 下記は、2011年3月11日発生の東北関東大地震に於いて、破損した情報ですが、
       体調不良入院中2017.9月下旬、突然、<www.geocities.jp>より、削除され、<Yahoo! JAPANカスタマーサービス>に、
       二度、問い合わせのメールを送信後、「仙台法務局からの削除請求を戴きました為、削除しました」の回答を2017.11.14受信。
        有限会社アイシン建設社長谷敬介の裁判内容を掲載した事が、不適切と云う事ですが、
       裁判は、公開ですし、憲法で、表現の自由は認められて居ますし、掲載PAGEだけで無く、geocities全部が、削除されました。
        従って、他の画像は発見出来ましたが、此の画像が探せず、掲載出来ません事を御了承下さい。

           1、墳墓の花立移動。
           2、墳墓南側の灯篭(我が祖【三宅太郎左衛門藤原芳高】の建立)火入れ部分落下破損。
           3、高徳寺の灯篭二基損壊。が被害に遭った状況です。

          * 大泉町は、<大泉町ポケットガイド>のpageを閉鎖した為、「いずみ緑道」等のリンクが無く成りました。
            現在、墳墓等は、大泉町の指定文化財ですが、群馬県の文化財にする事が課題です。

太平記の里観光都市構想第一弾 被災地支援・映画「フラガール」上映会

       何故?私が日韓親善と日韓相互理解に生涯を掛けているのか?
       其れは、私の元祖新羅四代王昔脱解/석달해>だったからなのです。
       其れで、私の歴史は元祖昔脱解誕生から今年で、2039年です。


      本会は、2012年7月8日(日)大泉町文化むら大ホールに於いて、 被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、
     第二弾から、第八弾迄、「除染作業」等の支援をしたが、<被災地の悪徳業者1>  <被災地の悪徳業者2>に、
     酷い目に遭い、ブラックリストの個人・企業が多い為、
     国家も、被災地には、税金を使わない方針に、変更の為、被災地支援から、撤退し、

      現在は、双葉郡の一箇町村を「世界貢献テーマパーク」として、地域繁栄し、住みたい街・行きたい街づくりをします。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★

誰もが望む、健康と長寿の万能薬・食べる化粧品<乾燥厚岸草・鹹草/함초>顆粒
万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

総務大臣届出47年政治団体 三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
日韓親善NGO活動41年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
会長 三宅英雄(高徳公陰陽直系二十四世裔)

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央二丁目10-19  電話&Fax 0276-61-0560
公開2009年02月03日   更新2023年11月03日  <敬称略>

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