二世 良順 | 三世 良朝 | 四世 良海 | 五世 善俊 | 六世 善朝 | 七世 朝宥 | 八世 良栄 |
九世 宥伝 | 十世 伝勝 | 十一世 宥海 | 十二世 宥広 | 十三世 宥寛 | 十四世 宥仁 | 十五世 宥範 |
十六世 宥全 | 十七世 宥進 | 十八世 宥昌 | (明治五年頃) | 十九世 英辯 | 以後通い住職 |
■児島神社創建認可遅延の訳 |
私が、「小父さん」と呼称して居た地域紙<第一新聞>の社主宮家史朗の著書<児島高徳実在論>に由ると、 |
神社創建当時の大川村宮永喜十郎村長名の調査報告書では、 |
高徳寺第十八代住職児島宥昌は、山師的僧侶で、 |
宥昌は、第十七代住職児島宥全が、武州幡羅郡蓮沼村総持寺住職として、 |
在住の頃、其の総持寺に、居候して居た宥昌は、「僧侶に苗字を附し、戸籍を儲けよ」との公布有り、 |
宥昌は、宗祖の苗字佐伯とするか?生家の今村とするか?開山の御姓児島とするか? |
決し難く、役所用人の前で、三つの姓を書き記した三本の籤の中から、児島を引き、児島姓を名乗った。 |
隣村の石塚村の坂田八十八の長女を内縁の妻とし、長男の児島三郎治を儲け、 |
明治四年本人死亡後の明治五年の戸籍制定時、其の母子を高徳寺西の長良神社神官に、擬し、 |
大川村字番場に、三郎治を戸主とする戸籍を創設した為、認可が遅延したと云う。 |
▲ {私感}所謂、創建に関わった第十七代住職児島宥全が、新平民と判断した為、 |
相応しく無いと遅延したと思います。 |
歴代住職の墓は、私の大先祖児島高徳公墳墓の下に有ったのだが、 |
小父さんも、意見を述べただろうが、合祀されて、 |
我が大先祖の墳墓では無く、高徳寺歴代の墓に成ってしまった。 |
眼の見えない細谷清吉に問題有り。 |