金山実城新田義貞公と我が祖児島高徳

金山實城 (みじょう)と呼称したのは、吉野内裏の奥に有る實城寺(じつじょうじ)に倣っての事」。
 *  画像は、旧国立長崎銀行弐円札で、院庄で、桜の幹に後醍醐天皇宛の十字の詩を刻んでいる我が遠祖<児島高徳公>と、
      稲村ヶ崎に太刀を投じている<新田義貞公>が描かれている。裏面は宮城。明治三十一年迄全国通用された。
       坂東太郎の対岸血洗島生誕の渋沢栄一は、高徳公・義貞公が好きで、
      我が家と武蔵島の宮下を行き来し、此の紙幣を発行してくれた。
       何故、弐円札なのか?其れは、幕末期の田原藩三河三宅の石高が、弐万石だったからで有る。
 *  画像は、左から、大泉町古海の<児島高徳公>を祀る児島神社で、明治十二年(1879)十二月、高徳公後裔で、私の高祖父三宅佐太七
      子爵の三宅康保(田原藩最後の十二代藩主)と「児島高徳朝臣墳墓考」の著者で、世良田八坂神社神官の、阿久津盛為
      更に、県会議員白石好等が神社創設を謀り、明治十五年十二月官許を得て、仝二十一年十一月社殿と社務所を竣工。
       右は、太田金山実城の<新田義貞公>を祀る新田神社で、明治六年(1873)義貞公後裔の新田俊純・地方有志と謀り、
      神社創立の許可を得て、仝八年社殿を竣工。

        【金山実城由来】  金山に「実城」と刻んだ石碑が有ったのだが、何処だったか思い出せない
   後醍醐天皇が、吉野に潜幸された延元元年(1336)から、皇居として、使った実城寺だが、正平四年(1349)正月、楠木正行四条畷で、
  師直に敗れ、吉野行宮等を焼き払った為、南朝の皇子各宮並びに楠木一族など南朝方の数多くが、
  南朝の道・秋葉街道を経由し、上野国新田郡に吉野から移住し、正平から、弘和年間に至る四十数年金山実城は、南朝方の拠点と化した。
   我が遠祖児島高徳公は、後村上天皇の命令を金山実城に居る其の第一皇子寛成王に伝える為、
  興国元年(1340)五月初めて、此処実城に来た。
   二度目も、後村上天皇の命令を正平七年(1352)五月、此の地方に点在する勤王の武士を歴訪する為、実城に立ち寄る。
   三度目は、正平九年(1354)四月、忍んで、金山実城に立ち寄る。
   (此の時代の凡その十年間は、此の地域への尊氏の攻撃凄まじく、長慶天皇と共に東北巡幸の際、陸中の国和賀郡妙見寺を訪れ、
  彼の地の佐竹・南部両氏の南朝方への力添えを乞うたが、果たせず、<有待>(うたい・頼みをする処が有るの意味)の文字の懸額を残し、
  正平二十年(1366)彼の地で死んだ事にして、古海に帰る。
   四度目は、後村上天皇の命令を正平二十四年(1369)三月初旬、実城に居る寛成王に、三種の神器を届ける為。
   我が遠祖は、何故、此の地を選んだのかと云うと、
  地理的立地条件から、古海は、坂東太郎の右岸平野部に有り、甲武の連山を遠くに眺め、
  西南には遥に富獄の雲表に、稜 立つ富士を望む処で、昔、醍醐・朱雀両天皇の時代より、下野大掾長門守藤原村雄公及び、
  其の子息<百足退治の伝説>俵藤太秀郷の誕生地、青柳庄赤岩村は、東に隣接し、其の村雄並びに、秀郷朝臣の領地で有った。
   藤原姓の一族佐貫・赤岩両氏は、互いに、此の古海村に住み、秀郷以後は、古海太郎の領地と成り、
  利根川の南側(武蔵国、今の埼玉県)方面よりの敵を防ぐ最適の要害地で、
  且つ、古海村は、古い時代から明治初期に至る迄、渡船場として、物資の往来も盛んで、経済的にも栄えた処だった。
   我が遠祖は、北朝軍を此の地に防ぎ、背後の新田金山実城と新田地方の南朝軍に、知らせる要害の地だった。
   我が遠祖は、五流尊瀧院(ごりゅう そんりゅういん)は岡山県倉敷市林に所在する修験道の寺院。
   本尊は十一面観音。天台修験系の一宗派の「修験道」の総本山で有る。
   そして、独自の判断でも動員出来る軍事力の本山派修験道勢力を身近に保有していた。
   「上野国本山山伏名所記」では、中世、上州に有った本山派修験は333院を数え、
  其の内、古海が属する邑楽郡だけでも、総数57院を占めて居たと云う。
   此れは、武蔵国でも同様で、埼玉県の場合は本山派が圧倒的に勢力を持って居たので、
  元弘三年(1333)五月八日生品明神に勤皇の義兵を挙げ、一族諸共二百騎程が鎌倉に向う、
  途中、武蔵の国見賀尻(現在の熊谷市三ヶ尻)で、 後方から二千騎余りの砂煙を上げて、向って来る軍勢が有り、
  「敵方か?」と眼を見張ったが、良く視ると大井田経氏を大将とする援軍で有った。
   義貞は、経氏に「どうして、義兵を挙げる事を知り、然も、速やかに着倒したか?」の問いに、
  経氏は、「昨朝、羽黒山の山伏俊賢(天狗山伏)が越後の国中に、 一日の間に義兵の事を触れ廻った為だ」と答えた。
   此れは、山伏修験道の大本山尊瀧院で生まれ育った、我が遠祖児島高徳の仕業で有る。
   又、南朝第三代・長慶天皇も「金山」に伝承を残して、第九十九代後亀山天皇に譲位し、
  長慶天皇は落飾して覚理法皇と名乗ったが、伊勢大湊を出航した長慶天皇は、三河国望王里に寄港した後、
  駿河国吉原浜に着き、其処から、甲斐国富士谷を経由し、六月頃上野国新田荘に着いたものと見られる。
   正平二十四年の沼田合戦に於いて、総帥義宗が討死し、副将脇屋義治も出羽へ落去したまま行方知れずと成った新田荘では、
  人々は息を殺しての日々を過ごして居たが、長慶天皇の出現に依って、驚きと歓喜の入り混じった興奮状態が生じ、
  新田荘内に残る一族長老達は長慶天皇を取り合えず金山実城へ案内した。
   実城は、東毛地方屈指の堅城で有ると同時に、新田荘の中央部に位置して居た為、長慶天皇の御座所には、最適の場所で有った。
   長慶天皇の上州潜幸が各地に雌伏している新田諸将へ伝えられるや、彼等は拝謁の為、続々と新田荘へ集まって来た。
   中でも長慶天皇を喜ばせたのは、新田義宗の遺児・貞方と脇屋義治の嫡男・義則が姿を現した事で有る。
   長慶天皇は、我が遠祖児島高徳を通じて、宗良親王恩顧の武将を金山実城に呼び寄せ、軍議を催した。
   更に、「新田覚心秘記」建徳二年(1371)の条には、
  「長慶法皇出羽国羽黒山ニ籠居ス。児島志純後村上天皇ノ遺詔ヲ奉シ、三種神器ヲ江田帝ニテ上野親王ノ御許ニ渡シ奉、
  児島志純古海郷ニ軍中守護ノ尊像ヲ安置ス、後神器ハ征西将軍懐良親王御許ヘ返シ玉フ。」
   我が遠祖児島高徳が後村上天皇の勅を拝して三種の神器を上野国に持参した、それが一時的に金山実城に移された。
   此の神器とは、燼余八咫鏡(じんよやたのかがみ)の事で、延元元年十月十日、足利尊氏ととの戦いに敗れ、
   比叡山を降りて、京都還幸を決定した後醍醐天皇が、前夜、恒良親王に譲位し、北陸へ落ち延びて新朝廷を樹立する様に命じた折、
   護持役の我が遠祖児島高徳と共に、恒良親王に授けられたが、恒良親王・新田義貞の非業の死によって北陸南朝の夢が破れ、
   脇屋義助・我が遠祖児島高徳が越前での苦闘の数年後、皇国三年に吉野南朝へ帰参した際、後村上天皇に戻された曰く付の神器で、
  此の鏡の存在は後醍醐天皇存命中より、極秘にされたので、
   文中二年八月の事件当時、
  (楠木正儀が南朝御座所・天野金剛寺を攻め、長慶天皇に譲位を迫った事件) 南朝内で真の神鏡を知って居る者は、
   長慶天皇、四条隆資の子である隆俊、そして我が遠祖児島高徳だけだった。 金剛寺より長慶天皇を守って脱出し、
   安全地帯である吉野に辿り着いた我が遠祖児島高徳は、当然の事ながら真の神鏡を携帯して、
  此の謎の神器は、新田義貞の北国落ちの時にも、我が遠祖児島高徳が持って居て、
  脇屋義助と共に、越前を離れる時も持参して居た。
   此の燼余八咫鏡(じんよやたのかがみ)の話は、代々家に有ったと母から聞いた事が有る。
  (私の前三代は、女系だったので、家の歴史を維持するのが大変だった様子で有る)
 *  画像左は、2007年04月13日訪ねた吉野の後醍醐天皇稜。
      右は、上毛新聞「東毛版」に掲載された、義貞公と高徳公が描かれた明治十三年国立長崎銀行発行の<弐円札>の記事。
     (全ての画像は、リンク設定に成って居ますので、PC等で、御覧下さい)

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公開2015年10月10日 更新2022年08月22日  敬称略。
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