亜熱帯の美しい島国立公園小笠原ガイド

世界遺産小笠原父島紀行記

さくら 日本最大一万三千トンの豪華純客船』

1977年渡航後、35周年記念PAGE

新春 小笠原クルーズ 38時間の航海

 77年の正月に、戦前、父親が、渡航した小笠原を訪問。美しい海で、泳いで来ました。生きているうちに、旅をしないと死んでからでは、行けません。小笠原訪問の参考に御覧下さい。★
       * 画像は、77.01.03 三日月山から二見港を背景。
         そして、御土産に買って来た「小笠原のパンフレット」表紙見開き画像です。
       * 画像は、「小笠原ガイド」小笠原の地図とサトウハチローのポニイアイランド詩と美しい小笠原の画像です。
         そして、聖ジョージ教会と咸臨丸乗組員墓地。
       * 画像は、六日間過ごした豪華純客船さくらのデッキ全図面。私の部屋割り表と其の各客室図面です。 (8人部屋)
         プール・談話室・読書室・子供遊戯室・カクテルバー・サロン・ステージ・居酒屋・浴室・プレイホール等の船内設備有り

    ★    【略史
 文禄二年(1593)朝鮮出兵の帰陣に際して、「しかるべき島が有ったら良いのに」との証文を徳川家康から得て、
南海探検の航海に船出した信州深志(松本)の城主、小笠原貞頼に依って、島々が発見され、
此れ等の島々は貞頼にちなんで「小笠原」と命名されたと言われ、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社が有る。
 其の後、寛文十年(1670)紀州藤代の船頭長衛門が全域を発見し、
五年後の延宝三年(1675)幕府の小笠原巡検が行われて、父島・母島の名が付けられ、日本領土を宣言した。

 然し、天保元年(1830)白人五人がハワイのカナカ人二十数人を伴って、父島に最初に上陸し、移住した。
 其の後、昨今の領土問題の様に、領有問題で諸外国との間に種々の曲折が有ったが、明治九年(1876)日本の領土と認められ、東京府の管轄と成る。
 昭和十六年(1941)太平洋戦争で、常夏の平和の島は一変して、苛烈な戦場と化し、島民約七千七百人は、本土に強制疎開の止む無きに至った。
 硫黄島の玉砕を最大の悲劇とする幾多の戦禍に荒れ果てた小笠原諸島は以来、二十二年間、米軍の占領下に置かれた。
 昭和四十三年(1968)六月二十六日漸く返還が実現し、各種の行政機関が設置される一方、復興事業が活発に進行中で有る。
 尚、小笠原諸島の持つ貴重な自然・生物・景観の保護・保存の為、昭和四十七年(1972)には国立公園に指定された。
       * 画像は、二見港が浅いので、接岸出来ず湾内に停泊の豪華客船さくらの画像です。
         大村の集落が見えますが、当時は信号が有りませんでした。そして、此の旅行の工程表とガイドマップ、更に、父島の地図画像です。
    ★    【気候
 小笠原諸島は亜熱帯地域に属し、典型的な海洋気候で、気候温順・気温の変化も少ない。
 父島の平均気温は29.6℃で、冬季17℃、夏季27℃と一年を通じ霜雪を見ることは無い。
 雨量も東京地方と粗同程度だが、此の付近は、台風の通路に当たり、八・九月の頃には、風水害に見舞われる事も有る。
       * 画像は、母島の地図画像と民間の商店等リストと官公署リストです。
       * 画像は、当時の観光風景画像です。
    ★    【人口】
 昭和四十九年(1974)三月一日現在で1112世帯、男性1241名、女性445名。
 返還以来、農漁業従事者・旅館・土産物店・飲食店等を営んでいた人々が次々帰島し、島民の生活基盤も漸く整いつつ有る。
       * 画像は、01.01夜、相部屋の皆さん。そして翌夜、船底で行われた乗客の紅白歌合戦画像です。
         白組キャプテンとして、とりに当時の十八番裕次郎の<夜霧の慕情>を熱唱。
    ★    【交通
 毎水曜日17時半東京竹芝桟橋から小笠原海運の<父島丸>(2,614t)が就航し、
三日目の金曜日7時半に父島二見港到着後、一日滞在し、翌土曜日18時半出航。そして、月曜日8時半竹芝桟橋に帰着する。
 尚、夏季は多数の観光客の利便を図る為、6月最終便から8月下旬便の間は毎火曜日竹芝発、
木曜日二見港到着、二日滞在後の土曜日に二見港発、月曜日竹芝着の日程で就航している。<父島丸>等の詳細は、此方から御覧下さい。
 母島へは、定期船の便が無いので、東京都の連絡船<おがさわら丸>か、民間の不定期船を利用する。
 或いは、民間の貨客船<共勝丸>が四日おきに晴海埠頭から出ている。
       * 画像は、紅組に、男が其々出るのは、如何なものか?と思っているうち、船長の結果発表は紅組の勝ち。!!
    ★    【産業
 戦前、小笠原諸島の農業は、亜熱帯の気候を利用し、野菜・バナナ・観葉植物等が盛んに生産されていたが、
戦後の二十二年間の占領下に農耕地は全くジャングルと化し、返還後、新たに開拓が進み、現在、三十戸の農家が40数ヘクタールの畑に、
南瓜・西瓜・メロン・バナナ等を栽培し、農業基盤も整い、漁業は、農業と共に島の主産業で有るが、
昭和四十三年に小笠原漁業協同組合が設立され、約八十隻の漁船が操業して、鮪・鰆・鯵・浜鯛・海老・蟹や、珊瑚の採取を行っている。
       * 画像は、01.03朝、上陸を前にして、豪華客船さくらの甲板です。
         そして、上陸後、聖ジョージ教会を訪問したが、誰も居なかった。更に、夜明山の注意書き看板と営林署のジープ。
       * 画像は、上の其の白い看板の拡大画像。そして、小港海岸の看板、海岸に出たら現地の女の子が遊んでいました。
    ★    【観光
 観光も島の重要な主産業で、本土に見られない亜熱帯特有の風物を訪ねて、年々観光客も増え、昭和四十八年の来島者数は一万四千人を超えている。
         『主な見所
 1、大村       父島の中心地、支庁・学校・生協・診療所等、全て此処に有る。
 2、三日月山     二見港から徒歩20分、海抜200mの所に観測所が有り、
           二見港の全景と兄島・弟島等パノラマの景観が楽しめる。
 3、宮の浜      大村から徒歩15分、美しい入り江で、海水浴・浜遊び等に好適。
 4、小港       大村から徒歩2時間、目も覚める様な真っ白い砂浜で、
           本土では見られない素晴しい海水浴場です。
 5、釣浜       大村から徒歩30分、磯釣りの名所で、魚の種類が多い。
 6、ハイキングコース 大村→夜明山→中央山→農業試験地→扇浦→大浦(徒歩6時間)
     * 尚、母島では、平島・蓬莱島等が海水浴や遊覧地としての名所で有る。
       * 画像は、01.04夕、父島を出航後、パジャマに着替えて、甲板にて。そして、01.06朝、晴海港到着後の出初式です。
    ★    【注意事項
 1、小笠原は、アホウドリ類など世界的に重要な絶滅のおそれの有る種の生息・生育地で有り、
  太平洋中央海洋域に於ける生物多様性の保全の為に欠かせない地域ですので、自然の一部を持ち帰る等の行為は厳禁です。
 2、キャンプは、小笠原村条例で禁止されています。
 3、小笠原から、トマト・パパイヤ・蜜柑・ピーマン等を持ち出す場合、植物検疫官の検査を受け、持ち出す許可を受ける必要が有ります。
       * 画像は、此の海岸で拾って来た珊瑚礁と御土産に買って来た螺鈿細工のブレスレット画像。
≪私の小笠原クルーズ
  77年1月1日正午前、自宅を出発し、東武電車で浅草へ、軽食を摂り、地下鉄に乗り換え、
 銀座からタクシーに乗り、晴海埠頭船客待合所に於いて、早速乗船手続き。
  一時間程で乗船の合図が有り、船上の人に成り、定刻17時出帆。
  相部屋の三人と自己紹介したり、船内探索をしたり、食事後、飲食したりで過ごす。
  2日は、夕食後、上記掲載の画像の様に紅白歌合戦。
  3日朝7時、二見港到着。接岸出来ないので、艀で父島上陸。
  此のクルーズの為に、チャーターした土建屋のマイクロバスで島内観光。
  島内の宿泊施設を利用出来ない約束なので、船に戻り、船中泊。
  4日朝再び、艀で上陸し、境浦の沈没船の浜で海水浴。海が綺麗なので、本当に来て良かった。
  父親も此の浜で泳いだと云っていたが、夕方は鮫が来ると云うので、注意されたい。船中泊。
  17時父島に別れを告げ、出帆。島内で釣り糸と針を買って来たので、餌なしで流すとむろ鯵が捕れ、
 相部屋の連中に刺身にし、持参して残っていた館林の地酒<竜神>と共に、振舞う。
  5日は、終日航海なので退屈。流し漁も飽きて、暗くなったら、即就寝。
  6日朝9時晴海港到着。埠頭では出初式を遣っていた。無事帰宅。
       * 画像は、手帳に押された日本最大豪華客船「さくら」のスタンプ画像。
       * 画像は、御土産に買って来た「小笠原渡航手形」表裏画像と此の渡航の切っ掛けに成った1933年の小笠原の父(23歳・左から二人目)。

*  母島等他の島々に足を延ばすには時間も費用も必要だなぁ~と感じました。現在は、私が訪れた時期と比べるとかなり変わっているでしょう。?
  当時は、観光地化していないので、歓迎されたとは感じなかった。一時、母島に空港を造る計画が有りましたが、頓挫して良かったです。
     一族の男子系を表わした父島・兄島・弟島、女子系を表わした母島・姉島・妹島、
  婚族を表わした聟島・嫁島・媒島等、家族愛を伝えているネーミングが素晴らしい。

    参考文献<島の旅>昭和四十九年発行・実業之日本社[ブルーガイドブックス]等。
    スライド画像は、小笠原村総務課企画政策室発行のパンフレット[世界自然遺産-小笠原諸島]。
世界自然遺産-小笠原諸島 世界自然遺産-小笠原諸島 世界自然遺産-小笠原諸島 世界自然遺産-小笠原諸島
       * 画像は、小笠原往復時、通過しなければ成らない八丈島に流された宇喜多秀家の子孫「浮田道照(何度も、訪問戴きました)」の名刺。
         そして、韓国に渡る為、86.12.27 早朝6時半到着した大阪南港一番乗りの愛車と87.1.9大阪南港上陸税関待ちの愛車。
         船の旅は、大阪国際フェリーオリンピア88等思い出は沢山有ります。(宇喜多秀家は、秀吉五大老で、高徳公の長男高秀六代目後裔)

      本会は、2012年7月8日(日)大泉町文化むら大ホールに於いて、 被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、
     第二弾から、第八弾迄、「除染作業」等の支援をしたが、「被災地の悪徳業者1」「被災地の悪徳業者2」に、
    酷い目に遭い、ブラックリストの個人・企業が多い為、国家も、被災地には、税金を使わない方針に、変更の為、被災地支援から、撤退します。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★
誰もが望む、健康と長寿の万能薬・食べる化粧品<乾燥厚岸草・鹹草/함초>顆粒
万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★

総務大臣届出46年政治団体 三宅藤原氏族会 (旧 児島高徳公直系同族会)
日韓親善NGO活動40年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
会長 三宅英雄(高徳公陰陽直系二十四世裔)

〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央二丁目10-19   電話&Fax 0276-61-0560
公開2012年01月01日   更新2024年01月06日   <敬称略>

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